古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日[1] - 1967年9月17日)は、大正・昭和初期の外交官。古谷綱武と古谷綱正は子息。
愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市宇和町明間)の庄屋・古谷綱紀の次男として生まれた。同志社を卒業後、米国ミシガン大学に学ぶ[1]。国民新聞社勤務を経て、1902年に外交官及領事官試験に合格した[1]。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。この営農資金協力者には、愛媛出身の村井保固(2万円)・佐々木長治(3千円)等が含まれていた。古谷は、移住者の錦衣帰国の風潮には反対で、永住的移住の考えをすすめた。彼はまた、社会事業等にも尽力、同仁会理事長、在伯日本人文化協会長(1934年)、日本病院建設委員会委員長(1936年)、サンパウロ教育普及会長、サンパウロ大学講師等、多方面にわたっている。
太平洋戦争後は、認識派の立場で在留邦人を指導、1946年、臣連特攻隊に襲われたが難を逃れたこともあった。1967年、91歳で死去。勲二等旭日重光章を贈られた。
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