佐藤 洋平(さとう ようへい、1972年11月22日 - )は、日本の元プロサッカー選手(1992年 - 2008年)。サッカーコーチ(2008年 - )。ポジションは、ゴールキーパー。宮城県仙台市出身。
鹿島アントラーズの前身である住友金属工業蹴球団時代から在籍していたが、Jリーグ開幕時には新加入の古川昌明にポジションを奪われ、ほとんど出場機会が与えられなかった。1994年に初めて試合出場するが、デビューから3試合で連続PK負けを喫した。
翌年の1995年に、古川の怪我もあり出場機会を得ると実力と成長をアピールしたものの、まだ併用されている状態であった。ジェフ市原戦では、主力選手の約半数を欠き、さらに退場者も出た中、佐藤の好セーブなどで0対0でのPK戦に持ち込み、味方のミスキックがあったにもかかわらず自らが2本のPKを止めて、4-2で勝利した。
1997年にはジョアン・カルロス監督によって正GKに起用される。リーグ第1ステージとナビスコカップの制覇に貢献するが、ジュビロ磐田とのチャンピオンシップでは第2戦で中山雅史にボールを奪われて失点し、チームは優勝を逃した。しかし、同年の天皇杯では優勝。
1998年は膝を痛めて離脱し、高桑大二朗に正GKの座を奪われた。
1999年、J2に降格したコンサドーレ札幌をJ1に上げようという岡田武史新監督の誘いに応じ、出場機会を求めてレンタル移籍した。2000年にはJ2優勝及びJ1昇格に貢献。この年のJ2における札幌の失点は、1試合で0.55点という驚異的な数字であった。2001年には札幌に完全移籍し、J1残留の立役者となった。また、この年は日本代表に選出された。岡田は「(札幌が好成績を挙げられたのは)佐藤ら、ごく一部の選手の実力に頼ったもの」であると、テレビのインタビューで明言した。
J2に降格して迎えた2003年も札幌に残留し、正GKとチームキャプテンを務めた。
2003年、鹿島時代の恩師であるジョアン・カルロスが札幌の監督に就任したが、指導方針で対立し、若手の藤ヶ谷陽介に正GKを奪われた。そこに、同年シーズン途中にGK不足[2] となった磐田からのオファーを受け、レンタルでの移籍を決断した。コンビネーションの問題でリーグ戦は出場機会がなかったが、山本浩正の不安定なプレーが続いたため、天皇杯ではゴールマウスを守り、安定したプレーでジュビロ磐田としては初の天皇杯制覇に貢献。翌年には完全移籍し、正GKとして活躍した。
2005年に日本代表の守護神・川口能活の加入、自らの怪我などがあってベンチを暖めることが多くなったが、出場した試合では安定したプレーでチームを支えた。
2007年のシーズン前、自分のファンが製作したサイトに「今年をラストイヤーにする」とコメントし、クラブ側からの説得にもその意志は変わらず、11月29日に2007年シーズンをもって現役を引退する事が発表された。
引退発表後は磐田の他に古巣の鹿島と、出身地のクラブであるベガルタ仙台からコーチ就任オファーがあったが、「若年層育成を行いたい」との意志から、磐田から要請されたジュニアユースチームのGKコーチに就任した。しかし、八田直樹の負傷によるGK不足から、チームからの要請を受け、2008年2月21日から6月30日までの期間限定で選手に復帰[3]。試合に出場することはなかったものの、カップ戦ではベンチ入りをした。
2009年、再度のベガルタ仙台のオファーを受諾して、同クラブのGKコーチに就任。
2014年12月24日、2015年にJFAのU-15日本代表GKコーチに就任することを発表[4]。また、U-22日本代表GKコーチも兼任。
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