九五式重戦車(きゅうごしきじゅうせんしゃ)は日本陸軍が1935年(昭和10年)(皇紀2595年)に制式化した重戦車である。「九五式」の名は皇紀の下二桁から取られている。秘匿名称「ロ号」[3](「イ号」は八九式中戦車、「ハ号」は九五式軽戦車)。
前史
第一次世界大戦の時点で既に、車体上に1基の全周旋回砲塔を載せ、これに武装を備えたルノーFT17軽戦車が登場したが、この近代的スタイルが各国に浸透していくには時間がかかった。この間、各国は他の形態の戦車の開発に試行錯誤を繰り返していた。このなかで生まれたのが複数の砲塔を持った多砲塔戦車であった。
イギリスでA1E1 インディペンデント重戦車が登場したのを皮切りに、世界各国でいくつかの多砲塔戦車が登場した[4]。しかし、車体が大きく被弾率が高い、武装を多く積むために装甲厚や機動性が犠牲となる、1輌あたりの生産費用が高いなどの理由から、T-28中戦車やT-35重戦車を製造したソビエト連邦以外は多砲塔戦車の大々的な運用を行わなかった。
九五式重戦車の概要
九五式重戦車は前述の多砲塔戦車の一種である。日本で作られた初の戦車として試製一号戦車、その改良型に試製九一式重戦車があるが、これらも車体前後に機関銃を装備した銃塔を持つ多砲塔戦車であった。また九五式重戦車は実用試験目的で満州に輸送された[5]。しかし両者共にコストや重量、機動性の問題があり、量産されることは無かった。
九五式重戦車は、1932年(昭和7年)3月に竣工した試製九一式重戦車を基に、1932年(昭和7年)12月に開発が始まり、1934年(昭和9年)9月には試作車が完成した。全体的な形状は試製一号戦車や試製九一式重戦車をほぼ踏襲しているが、装甲防護力や火力が向上している。
九五式重戦車は鉄道輸送を考慮して全長6.47 m、全幅2.7 m、全高2.9 m、重量26 tとなっていたが、当時としては大型の戦車である。レイアウトは後方から見て車体前方左側に九四式三十七粍戦車砲を積んだ副砲塔、その後方の一段高められた車体上に、初期には九〇式五糎七戦車砲[6]、後に九四式七糎戦車砲と、機銃を積んだ主砲塔、ついで機関室のスロープ、その背後の車体中心線付近に車載軽機関銃を積んだ銃塔が載せられている。
(上)車体後方左側から。
乗員配置は、車体前部右側に操縦手、車体前部左側の旋回砲塔に砲手、主砲塔に右側の車長と左側の砲手、車体後部の旋回銃塔に機銃手の、計5名である。70 mm砲の装填手については、5 kgという弾薬筒重量からして、車長が兼任したものと考えられる。
砲塔の装甲厚は前面30 mm、側面・後面25 mm、上面12 mmである。車体の装甲厚は前面35 mm、側面30 mm、後面25 mm、上面12 mmとこの時期の日本戦車としては厚く、ソ連のT-35に近いものとなっている[1]。また試製一号戦車の装甲厚は8 mmから17 mm、試製九一式重戦車が主要部20 mmであり、本車の装甲防御力は増している。本車は当時の技術水準からリベット接合により組み立てられている[7]。ただし一部証言では車体が軟鋼製であったとされる(4輌の内の何輌かは不明)。また車体前面中央に前照灯を装甲蓋付きの格納式に装備した。
火力
主砲は弾薬筒重量4.42 kgの九二式榴弾、および弾薬筒重量5.04 kgの九五式徹甲弾を使用可能である。この砲は砲塔の旋回とは別に、独自の砲架によっても旋回する。高低射界は-12から20度、方向射界は左右各10度である。性能としては弾薬筒重量4.42 kg、弾量3.81 kgの榴弾を初速350 m/sで撃ち出し、威力半径は20 mだった。射程は5,800 mである[8]。携行弾数は100発だった[1]。
副砲は36.7口径の37 mm砲である。高低射界は-15から20度、方向射界は左右各10度、弾薬筒重量975 gの九四式榴弾を583 m/sで撃ち出した。威力半径は8 m、射程は5,000 mである。砲身命数は5,000発である[9]。携行弾数は250発と多量である[1]。
機銃は車載軽機関銃を2挺搭載した。1つは後方銃塔、もう1挺は主砲塔にかんざし式に搭載されている。
(上)37 mm砲の旋回射界の大きいことがわかる。
機動力
操向装置にはクラッチ・ブレーキ方式、および遊星歯車機構を採用した。本車は後方に起動輪(スプロケット・ホイール)を持つ後輪駆動方式である。足周りは八九式中戦車とほぼ同様のものだった。しかし、試製一号戦車や九一式重戦車が数十個の小転輪を板バネ方式のサスペンションで接続したことに比べ、本車の転輪(片側)は8個+制衝転輪1個、上部支持輪(片側)が4個で構成され、転輪数を大幅に減らしている[10]。
(上)ボギーの動き。
エンジンにはBMW IV水冷直列6気筒ガソリンエンジンの改造型「BMW6290AG」を用い、290馬力を出力した。1930年代前半、川崎ではBMW系の機械式過給機の研究開発を行っていたので、出力向上はその成果(=機械式過給機付きの可能性あり)とも考えられる。(ハ9 (エンジン) も参照されたし。)携行燃料容量は400リットルで、行動能力は110 kmである。試製一号戦車や九一式重戦車は自重18 tでそれぞれ20 km/h、25 km/hの速力を出しており、本車は重量26 tで 22 km/hを発揮した。本車の登坂能力は三分の二の長斜面を登ることができ、徒渉水深能力は1.1 m、超壕能力は3 mだった[2]。
消音器(マフラー)は、機関室の右側面後方のフェンダー上に1つ配置されていた。
生産
九五式重戦車は1935年(昭和10年)に制式化され、陸軍の試験を受け結果は性能機能ともに実用に適するとされた。
しかし、大阪陸軍造兵廠による生産は4輌にとどまった。これは高速軽量な戦車(後の九七式中戦車 チハもしくは試製中戦車 チニ)を多数整備する方針が策定されたことによる[11]。当時、大陸の戦線では最高速度25 km/h、重量12 t の八九式中戦車が投入されていたが、八九式中戦車では歩兵を乗せたトラック部隊に追従できず、より軽快な九二式重装甲車や九四式軽装甲車が敵陣を突破する役割を担う状況が生まれており[12]、陸軍は戦車に機動力を求めていた。最高速度22 km/h、重量26 t の九五式重戦車は機動力の点で実用性が非常に低いとみなされた。1937-1938年(昭和12-13年)の段階で九五式重戦車の改良型が計画されていたが、開発や研究の優先順位の度合いは最下位であった[13]。(1939年(昭和14年)の時点では重戦車は堅陣突破用の兵器として位置づけられていたが、翌年1940年(昭和15年)には整備計画から重戦車は消えている[14]。)
最終的に、九五式重戦車が実戦に供されることはなかった。少なくとも1輌が昭和15~16年頃まで千葉戦車学校に存在していたとされる。その後、4輌の内1輌が三菱重工業によって10 cm 加農砲を搭載した自走砲(ジロ車)に改造されている。また、ジロ車とは別に、4号車を改造して前面に防盾を設置し、12cm 加農砲を搭載した自走砲も試作されている。(試製五式十五糎自走砲 ホチも参照。)
脚注
- ^ a b c d 『第二次大戦の日本軍用車両』94頁
- ^ a b 佐山『機甲入門』570-571頁
- ^ 日本戦車記事『ロ号車は九五式重戦車』
- ^ ピーター・チェンバレン『世界の戦車』136頁
- ^ 『日本の重戦車』カマド、98ページ。
- ^ 1939年のイギリスの報告書によると、東京での展示会で一両の重戦車が展示されており、その武装を57 mm砲と、車体前方左側のQF(速射砲)としている。九一式重戦車には速射砲=37 mm砲は搭載されていないので、この車両は九五式重戦車のことである可能性が高い。また、九五式重戦車の仕様書に57 mm砲と書かれている資料も存在する。となると、九五式重戦車は初期には57 mm砲を、後に70 mm砲に換装した、あるいは、4両の内、最も初期に生産された車両が57 mm砲を搭載していた、という可能性を考えるのが妥当である(もっとも展示物であれば敵国への欺瞞としてスペックを低めに表記していた可能性も考えられる)。ソースは*[1]の10分22秒から。
- ^ ピーター・チェンバレン『世界の戦車』215頁
- ^ 佐山『日本陸軍の火砲』296頁
- ^ 佐山『日本陸軍の火砲』277、288頁
- ^ 『第二次大戦の日本軍用車両』93頁
- ^ 佐山『機甲入門』258頁
- ^ 『日本陸軍の戦車』53頁
- ^ 『日本の重戦車』カマド、99-100ページ
- ^ 『日本の重戦車』カマド、101ページ。
注釈
参考文献
関連項目