三条 公頼(さんじょう きんより)は、戦国時代の公卿。太政大臣・三条実香の子。官位は従一位・左大臣。後龍翔院左大臣を号す。三条家16代当主。
本姓は藤原氏。家系は藤原北家の流れを汲む閑院流嫡流。三条家は藤原北家の藤原師輔の十二男藤原公季の子孫、三条実行を祖とする清華家の一つで、極官は太政大臣。家風は信仰心が篤く質素倹約を旨としたというが、他の公家同様、戦国時代に入ってからの生活はかなり苦しくなっていったようである。
明応4年(1495年)、三条実香の子として誕生。
永正11年(1514年)に権中納言、天文10年(1541年)に内大臣、天文12年(1543年)に右大臣、天文15年(1546年)に左大臣に任じられた。天文5年(1536年)3月、公頼は甲斐国国主、武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)の元服にあたり、京から勅使として赴いている。そして同年の7月に次女の三条の方が晴信の許へ輿入れした。
天文20年(1551年)8月には、周防国(山口)の大内義隆を頼り下向している。三条家と大内家は古いつきあいで、文明11年(1479年)4月には公頼の祖父・三条公敦が周防の大内家を頼り下向している。しかし、公頼は天文20年(1551年)9月1日、大内家臣の陶隆房の反乱(大寧寺の変)に巻き込まれ殺害された。墓所は山口県大寧寺。
公頼には息子がおらず三条家は断絶となるが、後に分家筋から三条実教(正親町三条公兄の子)、続いて三条実綱(三条西実枝の子)が三条家を相続した。
※日付は旧暦