七日市藩(なのかいちはん)は、上野国甘楽郡七日市(現在の群馬県富岡市七日市)を居所とした藩。藩庁は七日市陣屋に置かれた。1616年に前田利家の五男・前田利孝が1万石余で入封し、以来前田家が12代250年あまり続いて廃藩置県を迎えた[1]。加賀藩前田家一族の外様大名ではあるが、徳川秀忠の小姓を務めていた利孝が大坂の陣の武功により新知を受けるという譜代大名的な成り立ちを持つ[2]。江戸時代中期以降[注釈 1]は上野国で唯一の外様大名であった。
七日市藩の初代藩主は、加賀藩祖前田利家の五男の利孝である。
利孝は慶長9年(1604年)より江戸で芳春院(前田利家正室・まつ)に養育された[2][注釈 3]。徳川秀忠に小姓として仕え、大坂の陣で利孝は徳川家の旗本として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石余[注釈 4]の所領を与えた[2]。これが七日市藩の立藩である。兄たちが立てた富山藩(前田利次)や大聖寺藩(前田利治)とは異なり、加賀藩前田家からの分知ではなく幕府からの新知である。
小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった[2]。歴代藩主の多くは駿府城・大坂城の守備役を務めている。
第11代藩主・利豁の代である天保13年(1842年)、藩校・成器館が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津藩の討伐に参加した。翌年の版籍奉還で最後の藩主の利昭は知藩事となる。利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行なった。明治4年(1871年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となる。その後、七日市県を経て、群馬県に編入された。
外様 1万石
七日市の陣屋町は、前田家の入部間もない時期に整備されたとされる[5]。東西に走る中山道脇往還(下仁田街道)を中心に[6]、西から陣屋・武家屋敷・町屋が計画的に配置された[7]。武家屋敷と町屋の間には石垣が設けられて両者は明確に区別された[6]。土地の計測でも町屋では曲尺を、武家屋敷では鯨尺を使っていたという[6]。東隣は富岡町(旗本領[8])で、境界には「一ノ木戸」が設けられた[6][9]。
町場は5つの町からなり、街路も広くとられ[6]、「七日市」の名にふさわしい市場町としての繁栄が企図とされたとされる[10]。しかし、東隣の富岡町(下仁田街道富岡宿)が商業中心地であったために七日市の商家は少数にとどまり[6]、農家の並ぶ「非都市的集落[8]」になった[5]。1874年(明治7年)時点で七日市には260戸があり、職業の記載がある中では商業2戸・工業7戸に対し農業175戸であった(なお、士族が61戸あった)[11]。1889年(明治22年)に七日市村は富岡町などと合併し、町村制に基づく富岡町を発足させている。
弘化5年(1848年)の分限帳によれば士分は54家である[12]。知行取はそのうち8家で、200石取りの1家を筆頭に、150石取り3家、80石取り1家、70石取り3家が続く[12]。ほかの46家は扶持取であり[12]、その下に足軽などがいた[12]。家老職は保坂家が勤め、北保坂家・南保坂家と呼ばれた[9]。
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