ハプスブルク家の旗
ハプスブルク家 (ハプスブルクけ、ドイツ語 : Haus Habsburg 、スペイン語 : Casa de Habsburgo )は、オーストリア家( 独 : Haus Österreich 、西 : Casa de Austria )とも呼ばれる、ヨーロッパの歴史上最も著名で重要な王朝の一つである[ 1] [ 2] 。
ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボト によって現在のスイス に建てられた要塞、ハプスブルク城 に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト 伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフ がローマ王 に選出された。バーベンベルク家 の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦い でボヘミア王オタカル2世 に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家 に任命して一族の権力基盤をウィーン に移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
神聖ローマ帝国 の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世 の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。ハプスブルク家は、ボヘミア 、ハンガリー 、クロアチア 、スペイン 、ポルトガル 、ガリツィア・ロドメリア とそれぞれの植民地の王、低地 とイタリアの諸公国の支配者、19世紀にはオーストリアとオーストリア=ハンガリー の皇帝 、メキシコ皇帝 1人を輩出している。16世紀半ば、カール5世 の退位に伴い、スペインとオーストリアに分かれ、別々の領土を治めたが、両家は密接な関係を保ち、頻繁に婚姻を繰り返した。
ハプスブルク家の人々は、金羊毛騎士団 と聖ゲオルギオス王立騎士団のオーストリア支部を統括している。現在の当主はカール・フォン・ハプスブルク である。
呼称
家名の「Habsburg」は、ドイツ語ではドイツ語発音: [ˈhaːpsbʊʁk] (ハープスブルク )と発音される[ 注釈 1] 。ただし日本では慣用表記・読み方であるハプスブルク が多く使われる。スペイン語 ではアブスブルゴ家 (Casa de Habsburgo)、フランス語 ではアブズブール家 (Maison de Habsbourg)となる。ルドルフ1世 以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(ドイツ語:Haus Österreich, スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche)とも呼ばれる[ 注釈 2] 。
1915年の4ダカット金貨 。フランツ・ヨーゼフ1世 の肖像(左)。ハプスブルク家の紋章 である双頭の鷲 (右)の2つの頭は東と西を現すとされ、王冠をかぶった鷲が東西を見渡す様を示している
主な君主位
歴史
現在のスイスにおける1200年頃のハプスブルク家の支配領域は Habsburg として示され、 サヴォイア家 および ツェーリンゲン家 と キーブルク家 (ドイツ語版 ) に囲まれた地域にある。
ハプスブルク家は、アウストラシア のエティション家 の分家であり、スイス 北東部(バーゼル 近郊)のライン川 上流域を発祥地とする。
家祖は10世紀に東フランク王国 アルザス 地方のブライスガウ (ドイツ語版 ) に存在したグントラム金満公 である。さらなる祖が初期中世メロヴィング朝 フランク王国 アウストラシア のブルゴーニュ地域圏 のアルザス公 (英語版 ) でエティション家の家祖となった上アルザス公エティショ (ドイツ語版 ) である[ 注釈 5] 。エティショの祖父アマルガールはウァルダレヌス の娘アキリーナを妻として、ブルグント王国 の伯爵領において女子修道院 や男子修道院 の建設に出資した人物であったが、629年創立のベーズ修道院 (英語版 ) もその一つである。
グントラムは952年、アウストラシア議会の議決により皇帝オットー1世 から領地を没収され、東フランク王国内でスイス に移住した。グントラムの孫であるクレットガウ伯ラートボト が1020年から30年頃にハビヒツブルク城 を築いたといわれる。この城はその後ハプスブルク城と呼ばれるようになった。城は現在のスイスのカントン ・アールガウ にある。ハプスブルクの名は、高地ドイツ語 の鷹の城(Habichtsburg )に由来するという説や、近くに浅瀬の川があることから中高ドイツ語の"hab/hap"(浅瀬)に由来するという説があり、一致を見ていない。最初に王家自身によって文書でハプスブルクの名前が使われたのは1108年に遡る[ 3] [ 4] [ 5] 。ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となった。
ハプスブルク家は、チューリッヒ州 、アールガウ州 、トゥールガウ州 で伯爵権などの政治的特権を得ることや婚姻政策を通じて影響力を拡大した。13世紀にハプスブルク家は上アルザス とシュヴァーベン の名家をその婚姻政策の目標とした。彼らは一族のために、教会においても高い地位を得ることができた。領域的には、彼らはしばしばキーブルク家 (ドイツ語版 ) のようなほかの貴族の断絶などから利益を得た[ 6] 。
1547年時点でのハプスブルク家の領土
1273年 にハプスブルク伯爵ルドルフ4世(アルブレヒト4世 (ドイツ語版 ) の子)がローマ王 (皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国 の君主)に選出されて「ルドルフ1世 」として世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王 オタカル2世 をマルヒフェルトの戦い で破り、1282年 にオタカル2世の所領であったオーストリア公国 を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年 にルドルフの子アルブレヒト1世 が甥のヨーハン・パリツィーダ によって暗殺された後、その子フリードリヒ美王 が共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰える。しかし一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世 が「大公 」を自称した。
1438年 にアルブレヒト2世 が、次いで1440年フリードリヒ3世 がローマ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年 にマクシミリアン1世 がローマ教皇 から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。フリードリヒ3世の時代は皇帝とは名ばかりで権威も権力も財力もなかったが、マクシミリアン1世はヴァロワ=ブルゴーニュ家 への婿入りに近い形で当時のヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったブルゴーニュ領ネーデルラント 、ブルゴーニュ自由伯領 (フランシュ=コンテ )を、その子世代の婚姻関係によってスペイン王国、ナポリ王国 、シチリア王国 などを継承し、皇帝カール5世 の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。当時のスペインは中南米 を植民地 として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナント1世 がハンガリー王 、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。
カトリック の擁護者としてプロテスタント と戦ったカールは、1521年 に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割した。また、父フィリップ美公 や母フアナ 女王を通じて相続した所領は1556年 に息子フェリペ2世 に継がせた。こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家 とオーストリア系ハプスブルク家 に分かれた。1549年 に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。
スペイン系ハプスブルク家(アブスブルゴ家)
フェリペ1世 からカルロス2世 に至るまでの系図
スペイン系ハプスブルク家またはスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ、スペインでは通常はカサ・デ・アウストリアと呼ばれる)家は、1580年 から1640年 までポルトガル王 を兼ね、海外植民地 を含めて「日の沈まぬ帝国 」を実現した。フェリペ2世 の在位中に最盛期を迎えるが、無敵艦隊 の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争 やフランス・スペイン戦争 (西仏戦争)に敗れてヨーロッパの覇権を失った。
また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親婚 のためか、病弱な王が続いた[ 7] 。
1700年 、虚弱なカルロス2世 の死によって断絶した後、スペイン継承戦争 を経て王位をスペイン・ブルボン家 に譲った。
オーストリア系ハプスブルク家
1600年のヨーロッパ
オーストリア系ハプスブルク家またはオーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世 に始まる(ハプスブルク君主国 )。1648年 に三十年戦争 終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約 によって弱体化した。しかしオスマン帝国 の第二次ウィーン包囲 (1683年 )撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りオスマン帝国支配下にあったハンガリー を奪還する(1699年 、カルロヴィッツ条約 )。スペイン継承戦争 では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家 のブランデンブルク選帝侯 フリードリヒ3世 に「プロイセンの王 」の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝 としての権威を示す。
1740年 、カール6世 が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジア が相続したものの、それを不服とするプロイセン など列強との間にオーストリア継承戦争 が勃発した。オーストリアはシュレージエン を失うなど一時苦境に陥るが、イギリス (グレートブリテン王国 )の援助を受けて劣勢を挽回し、1748年 アーヘンの和約 によってオーストリア 、ボヘミア 、ハンガリー の相続を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ家 (ロートリンゲン家)のフランツ・シュテファン が1745年 に帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国 と接近した(外交革命 )。フランス王太子 ルイ(ルイ16世 )とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット )の結婚もその一環である。しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシア と共にポーランド分割 に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世 は啓蒙主義 を推し進めるなど、積極的に富国強兵 に努めた。
1789年 のフランス革命 は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネット の処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンとともにフランスに出兵する(フランス革命戦争 )。しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルト の台頭を許し、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争 の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。
神聖ローマ帝国解体後
1913年 当時のオーストリア・ハンガリー帝国
19世紀 初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝 ナポレオン1世 の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世 は1806年 に退位した。一方でフランツは、1804年 にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝 フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制 護持の神聖同盟 の一角として地位を保持し、ドイツ連邦 内においても優位を保っていた。しかし、クリミア戦争 でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年 にはサルデーニャ王国 に敗北してロンバルディア を失い、1866年 の普墺戦争 で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一 )、と国際的地位を低下させた。
国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 がハンガリー人に対して妥協(アウスグライヒ )することで、帝国は1867年 にオーストリア帝国 とハンガリー王国 とに二分して同じ君主を仰ぐオーストリア=ハンガリー帝国 へ再編された。
それでも以後、民族問題は深刻を深めていく。1908年 、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合 を行ったことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義 が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年 、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公 夫妻がボスニア の州都サラエヴォ でセルビア人 青年ガヴリロ・プリンツィプ に暗殺される事件(サラエヴォ事件 )がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦 から第一次世界大戦 が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン 政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国 側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキア に独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言した。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世 は亡命し、中欧 に650年間君臨したハプスブルク帝国 は1918年 に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリア共和国 への入国を禁止された。1921年にはカール1世がハンガリー王国 に復帰しようとしたが、失敗した(カール1世の復帰運動 )。
1961年 に至って、カール1世の長男オットー 元皇太子はオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国 に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家はオットーがドイツ選出で、その息子カール がオーストリア選出で、それぞれ欧州議会議員 を務め、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU 時代の両国関係を象徴する存在となっている。ただしオットーはその存命中、ハンガリー王とボヘミア王を名乗り続けていた。
なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の世代以降、現在に至るまで正式な家名は「ハプスブルク=ロートリンゲン家 」(Haus Habsburg-Lothringen)である。
結婚政策
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。
現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりベルギー 、ルクセンブルク の君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。
血族結婚
「ハプスブルクの顎(下顎前突症)」の特徴が表現されたカルロス2世の胸像 (ウィーン美術史美術館 所蔵)
一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪 やいとこ同士 (二重いとこの場合もあった)という血族結婚 を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀 頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こった[ 7] 。カール5世 以降、下顎前突症 (歯を見せたときに上の歯より下の歯が前にある。所謂「ハプスブルクの顎」)の人物が一族に多くなっており、カール5世は不正咬合 により食事は丸呑み状態であったことが伝えられている。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世 のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家 に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。
しかし、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため、外戚 に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることもまれであった(甥に暗殺されたアルブレヒト1世 、フリードリヒ3世 ・アルブレヒト6世 兄弟やルドルフ2世 ・マティアス 兄弟の争いといった例はある)。
幸福な結婚、多産の伝統
ほとんどは他の王侯と同様に政略結婚 であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。
10人以上の子供がいる主な夫妻
系図
祖家
グントラム「富裕伯」 [ 注釈 6]
ランツェリン
ランツェリン ライヒェナウ修道院守護 (?-1000?)
ヴェルナー1世 シュトラスブルク司教 1002-28
ラートボト (?-bef1045) クレットガウ伯
イータ ・フォン・ロートリンゲン
ルドルフ1世 (?-bef1063)オトマールスハイム女子修道院建立
クニグンデ
娘
ラントルト ライヒェナウ修道院守護
オットー1世
アルブレヒト1世
ヴェルナー2世 (?-1096) ハプスブルク伯
レギンリント
リヒェンツァ (?-1081) =ウルリヒ・フォン・レンツブルク=バーデン
ツェーリンゲン家
ヒッラ
オットー2世 (?-1111) ハプスブルク伯
アルブレヒト2世 (?-1141)
ユデンタ・フォン・オルテンベルク=ヒルルリンゲン (ツォレルン家)
イータ
ヴェルナー3世 (?-1167) ハプスブルク伯
アーデルハイト
ウルリヒ
イータ (フレンドルフ伯ルドルフ1世娘)
アルブレヒト3世 (?-1199) ハプスブルク伯
ゲルトルート =メンペルガルト伯 ティエリ3世 (スカルポン家 )
リヒェンツァ =フェレット伯ルイ1世 (スカルポン家 )
アグネス (シュタウフェン家 )
ルドルフ2世 (?-1232) ハプスブルク伯 アールガウ伯
娘
ハイルヴィヒ (キーブルク家ウルリヒ3世娘)
アルブレヒト4世 (賢伯) (?-1239/40) ハプスブルク伯 アールガウ伯
ハイルヴィヒ =フローブルク伯ヘルマン
ゲルトルート =フローブルク伯ルートヴィヒ
ルドルフ3世 (?-1249) ラウフェンブルク伯
ゲルトルート・フォン・レーゲンスブルク
ヴェルナー
ルドルフ1世 神聖ローマ皇帝
アルブレヒト (-1256)
ハルトマン (-bef1253)
クニグンデ =ハインリヒ・フォン・キュッセンベルク
ヴェルナー
ゴットフリート (猪突伯) (-1271)
ルドルフ コンスタンツ司教 1274-93
オットー
エーバーハルト (-1284)
アンナ (キーブルク伯ハルトマン娘)
(下図)
ルドルフ (-1315)
エリーザベト ・フォン・ラッパースヴィル
新キーブルク家 (ext.1414)
ハプスブルク=ラッパースヴィル家
オーストリア家
ギャラリー
評価
第一次世界大戦 中、ウッドロウ・ウィルソン 大統領のアドヴァイザーを務めた情報将校のウォルター・リップマン は、大統領に「ハプスブルク帝国を解体してはならない」と進言し、十四か条の平和原則 にも同帝国存続の項を盛り込んだという。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して第二次世界大戦 が起きたあとには、「これが中欧 の政治的均衡を破壊し、ヒトラー への道を開いた」と主張していた。
脚注
注釈
^ 英語での発音は、「Habsburg」:英語発音: [hæpsbɚːg] (ハプスバーグ)。
^ 例としてスペイン生まれのルイ13世王妃はフランスでアンヌ・ドートリッシュ (オーストリアのアンヌ)と称された。
^ 962年 - 1806年
^ ハインリヒ2世 (1014年 – 1024年)
^ エティショは683年ごろ死亡したが、別名をエティヒョ、あるいはアダルリック(アダルリクス)またはアティックという。エティション は踊共二 『図説 スイスの歴史』p17.では「エティコン家 (エティコーネン家 )」または「エティヒョン家 (エティヒョーネン家 )」と述べている。
^ エティション家(エティショーネン家)のノルトガウ伯フーゴ3世の子と推測されている。グントラムの出自については瀬原、『スイス独立史研究』に詳しい考察がある。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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