1291年以前
1291年以降
北方十字軍
民衆十字軍
対キリスト教徒/異端十字軍
レコンキスタ (718年-1492年)
フス戦争(フスせんそう、チェコ語: Husitské války、ポーランド語: Wojny husyckie、ドイツ語: Hussitenkriege、イタリア語: Crociata Hussita)は、15世紀に中央ヨーロッパで起こった戦争。ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)の信者(ボヘミアとポーランドを中心とする)と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で戦われた。フス派戦争とも表記される[1]。
1410年に行われたポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団との戦い(グルンヴァルトの戦い)ではボヘミアから来たフス派義勇兵がヴワディスワフ2世率いるポーランド軍の援護についた。このときのチェコ人義勇兵にはヤン・ジシュカもいる。
1419年、第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス戦争が始まった。ハンドキャノン(ポーランド語版、ドイツ語版、英語版)や火砲の伝来により、フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いといわれる。1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した、弩・手銃・砲を装甲馬車(Tabor)とともに活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、国民軍の原型のような軍隊を作り上げた。
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度も「フス派に対する十字軍」(イタリア語: crociata contro gli Hussiti)を組織したが、ことごとく打ち破られた(ウースチー・ナド・ラベムの戦い、タチョフの戦い(チェコ語版、英語版))。この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌いだすとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。1427年のタチョフの戦いから後、4年間は十字軍が組織されなかった。
1431年に行われた対フス派十字軍では(ドマシュリツェの戦い(チェコ語版、ドイツ語版、英語版))、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。
1431年-1435年に行われた「ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争」(Polish–Teutonic War (1431–35))では、フス派を中心にボヘミアから7000人の義勇兵がやってきてポーランド王国に味方した。1433年の北部ポーランドでの戦いにおける勝利に際しては、ボヘミア兵とポーランド兵はともに喜び、ヴィスワ川の河口近くで盛大な祝宴を催し、一同大いに気勢を挙げたという。19世紀プロイセン王国の歴史家ハインリヒ・フォン・トライチュケはこのときのことを「(フス派は)神の軍についての野蛮なチェコ人の歌を歌いながら(バルト)海に挨拶し、海水を瓶に入れ、バルト海が再びスラヴのものになった記念とした」と描写し、ドイツ民族に対抗した西スラヴ民族(ポーランド人とチェコ人)のこの時代の連帯を認めたのである(cs:Husitské tažení k Baltu)。
ヤン・ジシュカが病没して10年後の1434年、フス派は連戦連勝だったが、ボヘミアの人口は減り農村は荒廃し戦費の調達で農民は疲弊した。このためフス派の間では内部抗争が起こり、リパニの戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派(急進派)がウトラキストという穏健派によって壊滅させられ、皆殺しになった。さらに1439年、ポーランドでは既に王が代替わりしてヴワディスワフ3世となっていたが、フス派の略奪行為に手を焼いていたポーランド王国政府はついに殲滅に乗り出し、グロトニキの戦い(英語版)でポーランドにおけるフス派を壊滅させた。これによってフス戦争は完全に終結した。
その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、1458年にはラースロー5世ことハプスブルク家のラディスラフの死後、プロテスタント貴族イジーをボヘミア王に擁立した。1459年のエーガー条約(ドイツ語版、英語版)によって、ボヘミア王国とザクセン公国の勢力範囲が確定された。
ハプスブルク家を中心とする勢力はハンガリー王フニャディ・マーチャーシュを1469年にボヘミア王に擁立して互いに対立した。
1471年にイジーが死ぬと、プロテスタント貴族によってヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世の息子ヴワディスワフが迎えられ、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとしてボヘミア王に即位した。ボヘミア王を主張し続けたマーチャーシュが1490年に死ぬと、ポーランドから来たボヘミア王ヴラジスラフはハンガリー王ウラースロー2世としても即位し、ボヘミアとハンガリーの王となった。以後ボヘミア王国ではプロテスタントが認知され、しばらくの間安定した。ラヨシュ2世の治世に、モハーチの戦い(1526年)でオスマン帝国に大敗し、第一次ウィーン包囲でサポヤイ・ヤーノシュがオスマン帝国についたことにより、オスマン帝国領ハンガリー(1541年 - 1699年)が成立し、バルカン半島の領有が確定。
三十年戦争の白山の戦い(1620年)でスラヴ人かつプロテスタントであったチェコ貴族が全滅させられ、ドイツ人かつカトリックであった貴族が支配者としてチェコに入ってきた。以後チェコは完全にドイツ人の支配下に入る。一部のプロテスタント貴族やその追従者は、必死で逃げ延び宗教的に寛容で当時は特にプロテスタント運動が盛んだったポーランド王国に亡命した。ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフと共同生活の兄弟団などもフス派を起源とする。
18世紀後半に入ってポーランド王国がポーランド分割によって滅亡すると、多くが新天地を求めてアメリカ合衆国など「新世界」へ移住していった。
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