アルブレヒト6世(Albrecht VI., 1418年12月12日 - 1463年12月2日)は、ハプスブルク家のオーストリア公、後に大公。オーストリア公エルンスト(鉄公)とその2番目の妻ツィンバルカ・マゾヴィエツカの息子で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の弟。
生涯
1424年に父エルンストが死去すると、叔父フリードリヒ4世が後見人となり[1]、兄フリードリヒとともに所領を相続した。1439年、叔父フリードリヒ4世、および又従兄弟の皇帝アルブレヒト2世が死去。翌1440年、兄フリードリヒがアルブレヒト2世のあとを承けてローマ王となり、アルブレヒト2世の遺児ラディスラウスの後見人となった。1452年に皇帝位についた兄フリードリヒは1457年にラディスラウスが死去すると、ラディスラウスの遺領であるニーダーエスターライヒの領有権を主張し、アルブレヒトはこれに反対した[2]。最終的に翌1458年に兄フリードリヒとの間に取り決めを行い、エンス川以東のニーダーエスターライヒを兄フリードリヒが、エンス川以西のオーバーエスターライヒをアルブレヒトが支配することとなった[2]。
野心家であったアルブレヒトは、1461年6月にニーダーエスターライヒに進軍し[3]、さらに1463年には兄フリードリヒ3世が不在の間にウィーンで暴動を起こさせ、兄の妃エレオノーレと甥マクシミリアンを幽閉した[4]。そして急遽帰還したフリードリヒ3世を城内に入れずに追い払った。しかしほどなく、アルブレヒト6世は死去し(急進な苛政を敷いたため暗殺されたとされる)、フリードリヒ3世はウィーンへ戻ることができた。1452年に結婚したプファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世の娘メヒティルトとの間には子供がなかったため、所領はフリードリヒ3世が相続した。
脚注
- ^ ツェルナー、p. 186
- ^ a b ツェルナー、p. 192
- ^ ツェルナー、p. 193
- ^ 瀬原、p. 319
参考文献
- エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
- 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年
関連項目