テルテンリュウは日本の競走馬、種牡馬。おもな勝鞍は宝塚記念。東京優駿(日本ダービー)優勝馬ロングエースの代表産駒である。全18戦中17戦で西浦勝一が騎手を務めた。
経歴
馬齢は当時の表記とする。
中央競馬で競走生活を送る。デビューは1978年12月[1]3日、阪神競馬場の新馬戦。ここを勝利し[1]、続く800万円以下条件のシクラメン賞では、のちにクラシック路線などで争うネーハイジェットを降す[1]。
1979年、4歳時の春は常に人気となるも、きさらぎ賞2着[1]、毎日杯3着[1]など勝ちきれないレースが多かった。皐月賞は回避し、マーガレットステークス(当時2000メートル)を勝利[1]。東京優駿出走に向けて万全の状態でNHK杯へ出走、皐月賞2着のカツラノハイセイコ(3着)も出走していたが、2着に2馬身2分の1差を付け勝利[3]。単勝3番人気に支持された[4]東京優駿では、最後の直線で斜行し[4][注 1]リンドプルバンに不利を負わせ[5]、カツラノハイセイコと競り合う[5]も最後は3着に終わる[4]。秋は菊花賞を目指したが、体調不良で回避。
1980年、古馬となった5歳時はスポーツニッポン賞金杯2着[1]のあと日経新春杯で1番人気を裏切り[1]、オープン戦でその年の京都記念優勝馬アグネスレディーに勝利したが、天皇賞(春)では同い年のニチドウタローの6着だった[1]。そして、中京競馬場で開催された宝塚記念に出走[2]。カネミカサ、リンドプルバン、ニチドウタロー、カネミノブ、メジロイーグルなど強豪馬が揃うなか1番人気に支持された[2]。レースは不良馬場[2]という過酷な環境で行われたが、1周目の直線で後方から好位に取り付き[2]、逃げたメジロイーグルや先行したハシクランツ、カネミカサを最後の直線で内から差しきり優勝した[2]。
続く高松宮杯は繋靭帯炎のため出走取消となり[6]、以降も復帰はならず[1]、1981年に競走馬を引退した[1]。その後鹿児島県で種牡馬となったが早世[1]。2年間の供用で遺した産駒は3頭であった[1]。
血統
テルテンリュウの血統(ファリス系/Blue Peter 4×5=9.38%、Fairway 5×5=6.25%) |
(血統表の出典)
|
父 ロングエース 1969 黒鹿毛
|
父の父 *ハードリドン Hard Ridden 1955 黒鹿毛
|
Hard Sauce
|
Ardan
|
Sancy Bella
|
Toute Belle
|
Admiral Drake
|
Chatelaine
|
父の母 ウインジェスト 1963 黒鹿毛
|
*ティエポロ
|
Blue Peter
|
Trevisana
|
*ノルマニア
|
Norman
|
Sainte Mesme
|
母 フミノチェリー 1969 鹿毛
|
*ガーサント Guersant 1949 鹿毛
|
Bubbles
|
La Farina
|
Spring Cleaning
|
Montagnana
|
Brantome
|
Mauretania
|
母の母 キヌコ 1962 黒鹿毛
|
*ケリー
|
Panorama
|
Cottesmore
|
*フェアヒルズ
|
Fairwell
|
Song of the Hills F-No.1-l
|
母の半妹にアイノクレスピン[1](1977年神戸新聞杯優勝)。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 山野浩一「'85年3歳新種牡馬レヴュー (2)」『優駿』、日本中央競馬会、1985年9月、126頁。
- ^ a b c d e f g 筑紫正臣「第21回宝塚記念」『優駿』、日本中央競馬会、1980年8月、72-73頁。
- ^ 「第27回NHK杯(ダービートライアル)」『優駿』、日本中央競馬会、1979年7月、82頁。
- ^ a b c d 「東京優駿(第46回日本ダービー)成績公報の写し」『優駿』、日本中央競馬会、1979年7月、11頁。
- ^ a b 岡田毅「ハイセイコ 父の無念晴らす」『優駿』、日本中央競馬会、1979年7月、14頁。「5月28日サンケイスポーツ掲載」
- ^ 「第10回高松宮杯」『優駿』、日本中央競馬会、1980年8月、77頁。
外部リンク