17世紀フランス、ユルポーによる教則本口絵に描かれたジュ・ド・ポームの競技風景
ジュ・ド・ポーム (フランス語: jeu de paume , 英語: real tennis )は、中世 ヨーロッパ で成立したラケット 状の道具を用いてボール を打ち合う球技 で、テニス (ローンテニス)や卓球 、バドミントン の原型となったスポーツ である[1] 。16世紀 から17世紀 にかけてのフランス およびイギリス の絶対王政 時代に全盛期を迎え、王侯貴族や市民に広く親しまれた。19世紀以降、英語圏 では一般にリアルテニス の名で呼ばれている。1908年ロンドンオリンピック の公式競技の1つで、今日ではイギリスをはじめ、フランス、オーストラリア 、アメリカ に競技人口がいる。
競技の名称
ジュ・ド・ポームとは、フランス語で「手のひら(paume)の遊び、ゲーム」を意味する。その名が示すように、古くは素手 で直接ボールをたたいて競技した。その後、ラケットを使うようになって以降も、フランス語では競技を指す場合、変わらずポーム の語が用いられた[注 1] 。
さらにフランスでは壁で囲まれた屋内のコート で行うものをクルト・ポーム (courte paume 「短いポーム」)、壁による仕切りのない屋外で競技するものをロング・ポーム (longue paume 「長いポーム」)と区別する。
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イギリスに伝わると、この競技はテニス と呼ばれるようになった。オックスフォード英語大辞典 は、現存する英語文献においてテニスの語が用いられた最初期の例として、イングランドの詩人ジョン・ガワー が1400年頃に著した『平和礼賛』の一節を挙げている[4] 。
19世紀、ローンテニスが成立すると、テニスという語がこの新スポーツを指して使われるようになる。一方、それまでテニスと呼ばれていた古式テニスについては、イギリスではリアルテニス 、アメリカではコートテニス (court tennis )、オーストラリアではロイヤルテニス (royal tennis )の呼称が生まれた。これに対し、今日でもリアルテニスのプレーヤーの間では依然として、リアルテニスをテニス、テニスをローンテニスと呼ぶ傾向が根強く残っている[5] [6]
歴史
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主に:
ジュ・ド・ポームの成立過程
ローンテニス普及後 (2014年7月 )
ローンテニスの台頭
1874年2月、イギリスのウォルター・クロプトン・ウィングフィールド は自らスファイリスティケーと名付けた新スポーツの特許 を取得した。当時のイギリス人たちはこのギリシア風綴りの語の語尾だけをとってスティッキーと呼んだが、ここで少佐は自らが考案したと主張する球技を、古代ギリシア の神話 で王女ナウシカア が遊んだボール遊びやジュ・ド・ポームの歴史に連なるものとして規定した。「昔のジュ・ド・ポームをやるための新しく改善された、持ち運びのできるコート」[7] としてその新規性 を強調したのである。
芝生(lawn)の上で競技したことからスファイリスティケーはローンテニス(lawn tennis)の名で呼ばれることとなり、1875年、オールイングランド・クローケークラブ がこれを採用、1877年には同クラブによって最初のウィンブルドン選手権 が開催された。
コート
フロアが赤く塗られた伝統的なデザイン例(イギリス、ニューカッスル )
デダーン型コートのサービスサイド;3方向からコートを囲むペントハウス 、奥に見えるのがデダーン 、右手にギャラリー が並ぶ(アメリカ、サウスカロライナ州 エイケン
デダーン型コートのハザードサイド;右奥に見える壁のせり出しがタンブール 、窓のようにあいた部分がグリル
グリルの拡大写真;ボールが当たると大きな音が出る仕組みになっている
カレ型コートのサービスサイド;右奥隅の縦長の緑色の板がエ 、壁面の4つの窓がリュヌ 、デダーンはない(イギリス、フォークランド宮殿 )
メインウォールがガラス張りになっている近代的なデザイン例(アメリカ、バージニア州 ミッククレイン)
球戯場の誓い の舞台となったポーム場(フランス、ヴェルサイユ )
屋内で競技するジュ・ド・ポーム(クルト・ポーム、リアルテニス)のコートは、床(フロア )とそれを囲む壁面(ウォール )、さらにその壁面に沿って設置される庇 (ペントハウス )からなる。
コートはほぼ長方形 で、サイズは施設によっても異なるが、イギリスではおおむね長さ110フィート(33.5メートル)、幅40フィート(12メートル)程度で[8] 、テニス(ローンテニス)のコートよりも大きい。
床は石 もしくはコンクリート 製で、壁面も石壁やセメント で表面を塗り固めた煉瓦 壁などが用いられる。フロアの色には伝統的に赤や黒などが用いられる。18世紀に書かれたジュ・ド・ポームの解説書にも、ボールを見やすくするのにウシ の血液などを用いて床を赤く染めたとする記述がある[9] [10] 。
コートの中央をネット で仕切り、一方をサービスサイド (service side)、もう一方をハザードサイド (hazard side)と呼ぶ。ネットはぴんと張らず、中央の部分が低くなるようわざと弛ませる。イギリスではネットの中央部分の床からの高さを3フィート(0.91メートル)、両端の部分では5フィート(1.52メートル)とするよう定められている[11] 。
3つの壁面に沿って取り付けられたペントハウスは、庇にボールを投げることから試合が始まった中世のテニスの名残をとどめるものである。現代のジュ・ド・ポーム(リアルテニス)でも、サービスではハザードサイドのペントハウスにボールを触れさせることが必要である[12] 。
コートの長辺のペントハウスの下には観客席があり、これらをギャラリー (gallery) と呼ぶ。ギャラリーはそれぞれサービスサイド側から順に、ラストギャラリー、セカンドギャラリー、ドアギャラリー、ファーストギャラリーが並んでおり、中央の記録者席をはさんで、ハザードサイドにもファーストギャラリー、ドアギャラリー、セカンドギャラリー、そしてウィニングギャラリー (winning gallery)がある。
ハザードサイドの端の壁にあるグリル (grille「格子窓」)には、板ないしパネルが張られている。グリルはかつて中世フランスの修道院 で回廊に設けられていた面会用の格子窓が起源とされる[13] 。そのほかにも壁面にはさまざまな付属物があり、それらの要素の有無によって、ジュ・ド・ポームのコートはデダーン (dedans「内側」)型とカレ (quarré, carré「方形」)型の2種類に分類することができる[14] 。
デダーン型
コートのサービスサイドにデダーン と呼ばれる観客席があるものをデダーン型コートと呼ぶ。現代のジュ・ド・ポーム(リアルテニス)のコートとして一般的なタイプである。
デダーン、グリル、ウィニングギャラリーは、別名、勝利の窓 (winning openings)とも呼ばれる。これらに向かってネットを挟んだ反対側のサイドにいるプレーヤーがボールを打ち込むと、そのプレーヤーはポイントを獲得できる。
デダーン型コートのハザードサイドの壁には一部せり出した部分があり、これをタンブール (tambour「太鼓」)と呼ぶ。このタンブールがあるためにハザードサイドはサービスサイドよりも横幅が若干狭くなっている。
16世紀イタリアで『球戯論 』を著したアントニオ・スカイノは、フランス王アンリ2世 がパリのルーヴル宮殿 に建設したジュ・ド・ポームのコートに備え付けられていたギャラリーやタンブール、グリルについて、ボールの動きに複雑な変化をもたらしてプレーヤーや観客を楽しませ、「このラケット球戯の精妙さをさらに増す」ものだとしている[15] 。
カレ型
カレ型のコートの特徴はデダーンやタンブールが見られず、代わりにトル (trou「穴」)、エ (ais「板」)、リュヌ (lune「月」)などが存在することである。これらはいずれも勝利の窓と同じ機能を持ち、その穴や板に向かってボールを直接打ち込むと得点できた[16] 。
現存するコート
デダーン型、カレ型を問わず、現存するジュ・ド・ポームの専用コートは数少ない。コートの総数は約40で、大半はイギリスにある[17] 。国際オリンピック史学会 (ISOH) の元会長ビル・マロン (en:Bill Mallon ) は、2012年に「現在も残るコートはわずか20カ所ほど。大半がフランスにある」と述べている[18] 。
イギリスのコート
現存最古のデダーン型コートとして、ロンドン のハンプトン・コート宮殿 のロイヤルテニスコートがある。最初のコートは、1526年から1529年にかけてトマス・ウルジー が[19] 、あるいは1532年から1533年にかけてイングランド王ヘンリー8世 が建設した[20] 。現存するのは1626年[20] ないし1628年[19] にチャールズ1世 が再建設したもので、その息子チャールズ2世 が改装を行っている[20] 。イギリス王室 とゆかりの深いテニスコートである。
スコットランド 、ファイフ にあるフォークランド宮殿 には、1539年から1541年にかけてスコットランド王ジェームズ5世 の命で造られたカレ型のコートが現存しており、リアルテニスのコートとして利用されている。このコートのサービスサイドにはデダーンがなく、縦長の板状のエと4つの方形の窓のようなリュヌがあり、ハザードサイドにグリルはあるがタンブールがない。
フランスのコート
フランス国内にはパリ、ボルドー 、ポー にそれぞれ1つずつ、このほか2008年の世界選手権の会場となったフォンテーヌブロー宮殿 のクルト・ポーム用屋内コートがある。
かつて存在したコートの中には劇場などに転用されたものがある。球戯場の誓い の舞台となったことで知られるヴェルサイユ宮殿 のテニスコートはフランス革命 に関する展示施設となっている[21] 。パリ のジュ・ド・ポーム国立美術館 は、前身がポーム場であったことからその名前がある[22] 。
屋外で行うロング・ポームのコートは、パリのリュクサンブール公園 にあるものがよく知られている[23] [24] 。
用具
ディドロ とダランベール の百科全書 掲載の図版より、ラケットの制作過程とその種類;木のへら状のものがトリケ とバトワール
ラケットとボール;ラケットのヘッド部分が片側に偏っている
ラケット
当初は素手で競技していたジュ・ド・ポームであるが、次第に手を保護するために革紐を巻いたり手袋 をはめたりするようになり、14世紀にはトリケ (triquet)やバトワール (battoir)と呼ばれる木のへら 状の簡易ラケットが用いられるようになった。打ちべらの打球面を補強するのには羊皮紙 が用いられた[25] 。高価な羊皮紙を得るために写本 をばらばらにする者も現れ、ティトゥス・リウィウス の貴重な写本の一部がラケットの覆いに使われているのが見つかったという逸話もある[26] 。ガットを用いた今日のラケットに近いものが登場したのは16世紀の中頃である。
ジュ・ド・ポームのラケットは、コートの壁ぎわのボールもすくい上げて打ちやすいように、ヘッド部分が片側に偏り、左右が非対称になっている[27] 。
おもな競技大会
オリンピック
近代オリンピック の歴史にジュ・ド・ポームの名が最初に現れるのは1900年パリオリンピック においてである。この大会ではロング・ポーム(屋外で行うジュ・ド・ポーム)の競技が1900年5月27日と6月10日、リュクサンブール公園 を会場に実施された[28] [注 2] 。
しかしながら、このパリ五輪はパリ万国博覧会 の一部として開催された大会で[31] 、ロング・ポームにはパリを中心としたフランスのチームのみが参加し、万博に合わせて開かれた国内選手権という性格が強かった。このため、後世のスポーツ史家はパリ大会のロング・ポームを五輪の公式競技として行われたものとは認めていない[32] [33] 。
1908年ロンドンオリンピック は、過去にジュ・ド・ポームが公式競技として実施された五輪史上唯一の大会である。ロンドン大会にはイギリスとアメリカから計11名の男子選手が出場、決勝でイギリスのユースタス・マイルズ を3-0(6-5, 6-4, 6-4)で破ったアメリカのジェイ・グールド2世 が金メダルを獲得した[34] [35] 。
世界選手権
ジュ・ド・ポームの世界選手権大会 の始まりは1740年、世界選手権としては最古のものとされている[36] 。著名な過去の優勝者には国際テニス殿堂 入りしているトム・ペティット やロンドン五輪金メダリストのジェイ・グールド2世 、テニスのみならずラケッツの世界チャンピオンでもあったピーター・レイサム らが挙げられる。
1996年以降、大会は偶数年に開催されている。ロバート・フェイ は1994年から2008年まで世界選手権を9連覇し、それまでピエール・エチェバステール が持っていた8連覇記録を更新。2014年で11連覇を達成している。
グランドスラム
テニスのグランドスラム 同様、アメリカ、オーストラリア、フランス、イギリスで開催されるオープン大会があり、これらが四大大会に相当する。1年で4つの大会を制覇する年間グランドスラムは、男子ではイギリスのクリス・ロナルドソンとオーストラリアのロバート・フェイ が達成している。
脚注
注釈
^ ジュ・ド・ポームは日本語ではもっぱら競技を指すが、フランス語では「ポームを行う競技場 」、「球戯場」や「テニスコート」の意味にも使われる[2] 。英語でも競技そのものと競技場の両方を意味する[3] 。
^ パリ万博ではクルト・ポームの国際大会も同様に開催予定だったが実施はされなかった[29] [30] 。
出典
^ “HistoryofTableTennis ” (英語). International Table Tennis Federation . 2023年6月20日 閲覧。
^ "jeu", "paume"『小学館ロベール仏和大辞典』小学館、1988年、pp. 1356, 1778.
^ "jeu de paume", The Oxford English Dictionary , 2nd ed., vol. VIII, Oxford University Press, 1989, p. 228.
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^ ギルマイスター『テニスの文化史』p. 30.
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^ Bristol & Bath Tennis Club . “Facts you never expected to know about Real Tennis ” (英語). 2014年7月5日 閲覧。
^ ダルマーニュ「ジュ・ド・ポーム」『テニスの源流を求めて』pp. 184-185.
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^ Hobart Real Tennis Club . “About Real Tennis ” (英語). 2014年7月5日 閲覧。
^ ナショナルジオグラフィック. “ニュース - 文化 - ジュ・ド・ポーム、消えた五輪種目 ”. 2016年6月13日 閲覧。
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^ 稲垣正浩「ポーム」『最新スポーツ大事典』p. 1200.
参考文献
外部リンク
コートあり
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ハンドボール バスケット 複合 スティック アンドボール
ネット越え
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