コタシャーン(欧字名:Kotashaan、1988年5月8日 - )はフランスで生まれ、フランスとアメリカで調教を受けた競走馬。アメリカの芝路線で活躍した。日本のジャパンカップにも出走し、ケント・デザーモ騎手のゴール板誤認事件でも知られた。
戦績
1990年11月にデビュー。1991年まではフランスで走り8戦3勝、G3を1つ勝っている。
1992年にはアメリカへ転厩。しかしこの年は4戦して一般競走での1勝のみでシーズンを終える。
1993年になると、鞍上にアメリカの名手、ケント・デザーモを迎える。2月のG2サンルイオビスポステークスを7馬身差で制するとG1サンルイレイステークスではG1優勝馬ビエンビエンを抑えG1初優勝。その後もG1サンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップで再びビエンビエンにレコード勝ち、G1エディリードハンデキャップを3馬身差で優勝、G1競走3連勝で瞬く間にアメリカ芝路線のトップホースへと上り詰めた。G2デルマー招待ハンデキャップで2着に敗れ連勝が止まったが、G1オークツリー招待ハンデキャップに勝利、1番人気で迎えたブリーダーズカップ・ターフでは三度ビエンビエンを下し優勝した。
そしてジャパンカップへの招待を受け来日。凱旋門賞2着のホワイトマズル、アーリントンミリオン優勝馬スターオブコジーン、東京優駿(日本ダービー)優勝馬ウイニングチケットを抑えて1番人気に支持された。レースが始まると道中は中団やや後方に位置し、最後の直線で鋭い末脚を見せ差を詰めてきた。しかし残り100メートルの地点で鞍上のケント・デザーモがハロン棒をゴール板と勘違いし、追うのを止めた。すぐに自分のミスに気付いたデザーモ騎手は再び追い始めるが、日本のレガシーワールドから1馬身1/4離された2着に敗れた[1]。
この年、G1競走5勝でエクリプス賞年度代表馬、最優秀芝牡馬に選出された。
ジャパンカップを最後に引退し、日本で種牡馬になった。
種牡馬
1994年からレックススタッドで種牡馬入りする。種付け頭数は年平均50頭以上とまずまずの人気だったが、受胎率は30%程度とかなり低かった。それでも87頭が出走したが、地方重賞勝ち馬が1頭のみ、中央古馬オープンまで勝ち上がった馬も0頭に終わる。1999年には種付け頭数が0頭になり、2000年1月にアイルランドに輸出された。アイルランドでは障害競走用の種牡馬として供用されている[2]。
主な産駒
母の父として
血統表
脚注
外部リンク