生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年4月1日 - 1964年12月2日)は、活動弁士、俳優である。本名は生駒 悦(読み不明)。東京浅草を中心に高い人気を得た[1]。
人物・来歴
1895年(明治28年)4月1日[2]、岡山県[2] 真島郡落合村大字垂水(現在の同県真庭市落合垂水)で運送業を営む、若狭屋生駒宗平の長男・悦として生まれる[3]。
1912年(明治45年)、旧制・岡山県立商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業、役場につとめるが、退職して上京し[3]、早稲田大学に入学した。やがて中退[2]、伊井蓉峰門下から日活(1912年設立)の「活動写真弁士養成所」で弁士の技術を学んだ[2]。
1916年(大正5年)、満21歳のころ、浅草の帝国館で公開されたユニバーサル映画の一連のブルーバード映画作品が大ヒットし、生駒の解説の功とされた[3]。1917年(大正6年)、22歳のころ、同館の主任弁士となった[2]。。1918年(大正7年)1月、浅草帝国館封切り、監督・脚本リン・F・レイノルズ、マートル・ゴンザレス主演のブルーバード映画『南方の判事』のなかで、林天風が考案した説明の文句「春や春、春南方のローマンス」の名調子が評判となる[4]。
浅草・千代田館の専属となる。徳川夢声が山の手のインテリ層に人気を誇ったのに対して、雷遊は下町の庶民に愛された[要出典]。「新宿の夢声か、浅草の雷遊か」と比較され、夢声と2人で東京の人気を二分した[3]。
1926年(大正15年)、31歳のころ、徳川夢声、山野一郎、大辻司郎らの「ナヤマシ会」に参加。その後、トーキーの登場で活動が徐々に少なくなり、軽演劇の俳優に転身、1933年(昭和8年)、38歳にして、古川ロッパらとともに「笑の王国」を旗揚げ、のちに座長となった[2]。「笑の王国」が解散してからは、自ら一座を結成し地方巡業したり、映画館の経営などいろいろ手を出したが成功せず[要出典]。晩年は無声映画鑑賞会などを催し往年のファンらを楽しませた[要出典]。
1964年(昭和39年)12月2日、食道癌のため死去した[2][5]。満69歳没。
私生活では、笑の王国の一員で19歳年下の喜劇女優の清川虹子と1933年から1935年にかけて同居生活を送り、1934年には男児をもうけた[6]。
関連事項
註
関連書籍
- 生駒の終焉を描く小説。
外部リンク