マートル・ゴンザレス

マートル・ゴンザレス
Myrtle Gonzalez
Myrtle Gonzalez
別名義 Myrtle Gonzales
生年月日 (1891-09-28) 1891年9月28日
没年月日 (1918-10-22) 1918年10月22日(27歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
死没地 同上
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優
ジャンル サイレント映画
活動期間 1913年 - 1918年
配偶者 ジェームズ・P・ジョーンズ
(1910年 - 1914年)
アレン・ワット
(1917年 - 1918年死別)
著名な家族 一児
主な作品
沼の少女
南方の判事
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マートル・ゴンザレスMyrtle Gonzalez, 1891年9月28日 - 1918年10月22日)は、アメリカ合衆国女優である[1]

人物・来歴

1891年(明治24年)9月28日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルス市に生まれる[1]

1913年(大正2年)、ヴァイタグラフ・カンパニー・オヴ・アメリカ(ヴァイタグラフ・スタジオ)に入社、同社が量産する短篇映画に出演した[1]。1914年(大正3年)、1作のみ、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)での作品に出演している。The Yaqui's Revenge という西部劇の短篇映画で、ウィリアム・クリフォードの相手役を務めた。

翌1915年(大正4年)、ユニヴァーサルに移籍、第1作は Inside Facts であった[1]。同年入社2作目の The Bride of the Nancy Lee 以降は、リチャード・スタントンとの数作を除き、すべてリン・F・レイノルズ監督作への出演となった[1]

1916年(大正5年)、ユニヴァーサル傘下のブルーバード映画が製作した『沼の少女』、『沼の秘密』が日本でも公開され、たいへんな人気となる[2]。1917年(大正6年)の『南方の判事』が日本でも大ヒットする[3]。同年、アレン・ワットと結婚、『独艇の根拠地』を最後に休業する[1][4]

1918年(大正7年)、全世界で猛威を振るったスペインかぜに罹患し、同年10月22日、同病による心不全によりロサンゼルス市内で死去した[1]。満27歳没。同年12月に日本で創刊された『活動評論』では、見開き2ページの『汝悲しいマートルよ』と題した追悼文が掲載された[4]

2022年11月23日、米国版Google Doodleでゴンザレスが紹介された[5]。11月23日は彼女が主演した短編映画『The Level』(1914年)の公開記念日である[5][6]

フィルモグラフィ

File:The Girl of the Lost Lake (1916)

関連事項

  1. ^ a b c d e f g Myrtle Gonzalez, Internet Movie Database (英語), 2010年4月16日閲覧。
  2. ^ 日本映画発達史 I 活動写真時代』 、田中純一郎中公文庫、1975年12月10日 ISBN 4122002850, p.257-261.
  3. ^ 『日本映画発達史 I 活動写真時代』、p.322-323.
  4. ^ a b 『活動評論』大正7年12月創刊号、1918年、p.10-11.
  5. ^ a b Celebrating Myrtle Gonzalez Doodle - Google Doodles” (英語). doodles.google. 2024年4月8日閲覧。
  6. ^ The Level (Short 1914)”. IMDB. 2024年4月8日閲覧。

外部リンク

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