長じて、同州で新聞記者となり、その後、バートン・キング率いるバートン・キング・カンパニーで俳優として映画出演をする[1]。1914年(大正3年)から脚本を書き始め、翌1915年(大正4年)、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同年、エラ・ホール主演の映画 Both Sides of Life で監督としてデビューする[1]。1916年(大正5年)に設立された同社の子会社・ブルーバード映画で『沼の少女』や『南方の判事』を監督し、レイノルズの監督作は日本でも多く上映され、その後に設立された松竹蒲田撮影所(1920年設立)の映画作品に多大な影響を与えた[2]。