リン・F・レイノルズ

Lynn F. Reynolds
リン・F・レイノルズ
別名義 Lynn Reynolds
生年月日 (1891-05-07) 1891年5月7日
没年月日 (1927-02-25) 1927年2月25日(35歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アイオワ州ハーレム
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業 俳優映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル サイレント映画
活動期間 1914年 - 1927年
配偶者 キャスリーン・オコンナー
(1921年 - 1927年死別)
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リン・F・レイノルズLynn F. Reynolds, 1891年5月7日 - 1927年2月25日)は、アメリカ合衆国俳優映画監督脚本家映画プロデューサーである[1]

日本ではブルーバード映画沼の少女』、『南方の判事』の監督として知られる[2]

人物・来歴

1891年(明治24年)5月7日、アメリカ合衆国アイオワ州ハーレムに生まれる[1]

長じて、同州で新聞記者となり、その後、バートン・キング率いるバートン・キング・カンパニーで俳優として映画出演をする[1]。1914年(大正3年)から脚本を書き始め、翌1915年(大正4年)、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同年、エラ・ホール主演の映画 Both Sides of Life で監督としてデビューする[1]。1916年(大正5年)に設立された同社の子会社・ブルーバード映画で『沼の少女』や『南方の判事』を監督し、レイノルズの監督作は日本でも多く上映され、その後に設立された松竹蒲田撮影所(1920年設立)の映画作品に多大な影響を与えた[2]

1921年(大正10年)6月、女優のキャスリーン・オコンナーと結婚する[1]

1927年(昭和2年)2月25日カリフォルニア州ロサンゼルスで拳銃自殺により死去した[1]。満35歳没。ロサンゼルス郡サンタモニカ市の墓地「ハリウッド・フォーエヴァー」に眠る[3]

おもなフィルモグラフィ

It Happened in Honolulu (1916)

関連事項

  1. ^ a b c d e f Lynn Reynolds, Internet Movie Database, 2010年4月7日閲覧。
  2. ^ a b 日本映画発達史 I 活動写真時代』 、田中純一郎中公文庫、1975年12月10日 ISBN 4122002850, p.257-261.
  3. ^ Lynn Reynolds, Find A Grave, 2010年4月7日閲覧。
  4. ^ Both Sides of Life - IMDb(英語), 2010年4月7日閲覧。
  5. ^ キャスリーン・オコンナーキネマ旬報映画データベース、2010年4月7日閲覧。

外部リンク

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