山野一郎

山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1958年12月18日)は、日本の活動写真弁士、漫談家、俳優。本名は山内幸一。

弟の山地幸雄(本名:山内倉司)も活動写真弁士である。

1919年、三浦さくと結婚。第1子は夭逝したが、第2子・山内明は俳優、第3子・山内久は脚本家、第4子・山内正は作曲家、また、第5子山内幸子は作曲家小杉太一郎(俳優小杉勇の長男)の妻となった。タレントエッセイスト山内美郷は孫(明の長女)。

来歴・人物

新潟県古志郡半蔵金村生まれ。幼年期に一家で東京に出て、向島に育つ。なお、生涯、自分が東京生まれでないことを隠していたという[1]東京府立第三中学校卒業。

はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。

向島福神館でデビュー、広尾不二館を経て、1923年(大正12年)より新宿武蔵野館専属となり、徳川夢声とともに同館の主任弁士を務めた。

映画がトーキーになってからは講談師の6代目一龍斎貞山の門下で一龍斎貞壽を襲名、さらに漫談家・俳優としてラジオや映画にも出演した。 1926年(大正15年)古川緑波らと「ナヤマシ会」を結成。

1929年(昭和4年)、武蔵野館でトーキー映画の上映が始まると同年10月には休養を余儀なくされる[2]

1933年(昭和8年)には「笑の王国」設立に参加した。

1958年(昭和33年)12月18日、心不全のため自宅で倒れ、死去した。享年59。墓所は都立雑司が谷霊園

自伝『人情映画ばか』(1960年、日本週報社、大空社より復刻)がある。

主な出演映画

  • 行けロスアンゼルス(1923年)
  • エノケンの弥次喜多(1939年) - 伴団六 役
  • エノケンの八百八狸 大暴れ(1950年) - 権助(狸) 役
  • エノケンの天一坊(1950年) - 講釈師愚山 役

脚注

  1. ^ 木下華声『芸人紙風船』大陸書房
  2. ^ トーキー普及で弁士の失業続出『東京朝日新聞』昭和4年11月3日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p23 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

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