最も領土が拡大していた時期のローマ帝国 版図(117年 )
我らが海 (われらがうみ、羅 : Mare Nostrum )とは、古代ローマ における地中海 の呼称。1861年のイタリア統一 後、イタリア をローマ帝国 の後継者だと信じるイタリアのナショナリスト によって盛んに用いられた[1] 。我らの海 [2] や我々の海 [3] とも訳される。
古代ローマ時代
ローマ人 が地中海を表す用語として「我らが海」の名を用い始めたのは、カルタゴ とのポエニ戦争 中にシチリア 、サルデーニャ 、コルシカ島 を征服してからである。紀元前30年 にローマの支配はイベリア半島 からエジプト にまで拡大し、「我らが海」の語は「全地中海」を指す文脈で用いられるようになった[4] 。他にも「内なる海」(Mare Internum)などの名前が用いられていたが、「地中海 」(Mediterraneum Mare)の名は含まれていなかった(「地中海」という語が作られたのはローマ帝国の衰亡 (英語版 ) 後の後期ラテン語 の時期であった[5] )。
イタリアのナショナリズム
1880年代 のアフリカ分割 の時期に台頭したイタリアのナショナリズム (英語版 ) は、イタリア植民地帝国 の創設を熱望した。「我らが海」という用語はイタリア人 の詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ によって初めて復古されたとされる[要出典 ] 。
たとえ
トリポリ の港が砂漠であったとしても、たとえそれが一人の百姓や一つのイタリアの商店を支える事にならなくとも、「我らが海」が阻害されないためにそこを奪取する必要がある。
ファシズム
この語はアドルフ・ヒトラー が「生存圏 」の語を用いたのと同様に、ベニート・ムッソリーニ によってファシズム のプロパガンダ として用いられた。ムッソリーニはローマ帝国の威容を再現することを望み、第一次世界大戦 後のイタリアは地中海沿岸諸国の中で最も力のある国だと考えていた[6] 。彼は「20世紀はイタリアンパワーの世紀となるだろう」と宣言し、地中海の制海権を得るために世界屈指の海軍を築き上げた[7] 。
イタリアが第二次世界大戦 に参戦した際、同国は既に中央海盆の南北の沿岸部を支配する、地中海の主要国であった。フランス の没落は西方の主要な脅威が無くなったことを意味し、イタリアはアルバニア への侵攻、後のギリシャ 、エジプト への侵攻で更に東への支配軸拡大を企図した。
ムッソリーニはイタリア帝国 を彼の「我らが海」に建設することを夢みていた。また、枢軸国 の勝利後に開催される平和会議で実現されるはずである、ファシストの計画(エジプトの地中海沿岸から、ソマリア とケニヤ 東部のインド洋沿岸まで広がるイタリア植民地帝国の拡大)を予期してもいた。彼は地中海を「イタリア湖」とすると表現していた。しかし、この計画は会戦 を通じて連合国 陸海軍からの挑戦を受けることとなった。ギリシャはイタリアが占領を行うには力を持ちすぎており、実際にギリシャはドイツ軍がイタリアの侵攻を援助するために到着するまで独立を守り続けた。地中海の戦いの最中の枢軸による統治期でさえも彼の計画は実現することなく、1943年9月のイタリアの降伏 を以て完全に消失することとなる。
もっとも、ムッソリーニにとって「我らが海」は単なるスローガンであったとする見解もある。イタリアの軍備の脆弱さや経済の疲弊を熟知していたムッソリーニは、イタリアが長期にわたる大規模戦争を戦うことは不可能であると判断しており、あくまで国民を鼓舞するために古代ローマの栄光を利用していた。実際、ムッソリーニはイタリア帝国がローマ帝国の版図を領有するなどという夢想に浸ったことは一度もなかったし、ヒトラーの『わが闘争 』に代表される世界支配のマスタープラン を掲げたこともなかったとされる。このため、ムッソリーニにとっての「我らが海」は、ヒトラーの主張する「生存圏」が現実の行動を左右する政治目標であったのとは質的に異なり、単なるスローガンでしかなかったと指摘されている。
現代
「我らが海」という用語は、2012年6月にカリャリ大学 で行われた「地中海世界の法と文化協会(the Society for Mediterranean Law and Culture)」の発足会においてテーマとして選ばれた[13] 。こうした現代における用法は、広く地中海世界の文化を包摂する用語として用いられている[13] 。
典拠
引用文献
脚注