コルシカ島 (コルシカとう、コルシカ語 : Corsica )、または、コルス島 (コルスとう、仏 : Corse 、フランス語発音: [kɔʁs] )は、地中海 西部、イタリア半島 の西に位置するフランス 領の島 である。面積は約8,680km2 (日本 の広島県 と同程度)と、地中海ではシチリア島 、サルデーニャ島 、キプロス島 に次いで4番目に大きい。漢字表記は哥而西加[ 1] 。
フランス皇帝 ナポレオン1世 の出身地[ 2] として知られ、1980年代にはコルシカ民族解放戦線 (FLNC) が活動して爆弾テロ事件を頻発させていたことでも知られる。
名称
島の名前の「コルシカ」 (Corsica ) はイタリア語 での呼称であり、フランス語 では「コルス」 (Corse ) 、コルシカ語 では「コルシガ」 (Corsica ) となる。フェニキア語 で「森林の多い」の意。
行政区画
フランスの地域圏 の一つとされるが、1991年以降は他の地域圏にはない権限が付与されたコルス地方公共団体 (Collectivité Territoriale de Corse, CTC ) がコルシカ島全体の行政を統括する。
島は南部のコルス=デュ=シュド県 (Corse-du-Sud, 2A ) 及び北部のオート=コルス県 (Haute-Corse, 2B ) に分けられたが、2018年1月、コルシカ島では県が廃止され、上記2県の議会、県庁の機能と権限がコルス地方公共団体 に統合された。これにより、CTCは、「コルス単一地方公共団体 (Collectivité unique de Corse)」、「コルス公共団体 (Collectivité de Corse)」とも呼ばれるようになった。
地理
コルシカ島(コルス島)の位置
1914年のヨーロッパ の民族地図
南北183km、東西83kmに及ぶ島は2億5千万年前に西側で隆起した花崗岩 に5千万年前に東側の堆積岩 が押し付けられ片岩 が出来たという地質からなり、ほとんどが急峻な山岳 で占められ、2500メートルを超える高峰が連なる。最高峰はチント山 (コルシカ語ではモンテ・ヂントゥ)で2710メートル、ついでロトンド山(同モンテ・ロドンドゥ、2625メートル)、アル・バルダート山(同カブ・アウ・ベルダードゥ、2583メートル)、ビアンコ山(同カブ・ウィアンク、2562メートル)、ミヌータ山(同プンタ・ミヌーダ、2556メートル)である。これら高峰は島を2つに分けるように西北から南東へ連なっており、その西側と東側では風俗や社会形態、言語などが対照的に異なっている。
沿岸部の気候は他の地中海沿岸地域と大差なく年中温暖で少雨であるが、山岳地域は冷涼多雨で冬季には雪が積もり、スキー場 が4箇所ある。
沿岸部の地形は東部(東海岸)と西部(西海岸)でまったく異なっている。東海岸は極めて単調で、コルシカに数少ない平野 も広がり、ラグーン (潟)も所々で見られる。ラグーンのうち主なものは北部にある全域が自然保護区 に指定されているビグリア潟(コルシカ語で「ビグーヤ」)、中部アレリア近辺にあり、カキ やムール貝 の養殖が行われているディアヌ潟(同「ディアナ」)、ウルビノ潟(同「ウルビーヌ」)である。
一方西海岸は断崖絶壁が続き、平野は中部のグラヴォナ川(コルシカ語で「ア・ラウォーナ」)河口付近にあるのみである。西海岸北西部のポルト湾 は奇岩群で知られ、「ピアナのカランケ、ジロラータ湾、スカンドーラ自然保護区を含むポルト湾」として世界遺産 に登録されている。
コルシカ島は面積の割に急峻な山岳地帯が大半を占め、それほど大規模の農業・産業が展開できない土地であるため居住人口は少なく、沿岸部および山岳部には手付かずの自然が残されている。島全体の4割近くがコルシカ地域自然公園 (PNR) に指定されており、夏にはハイカーが大勢訪れる。
北部の森林地帯には現地語でキツネネコ (コルシカ語:ghjattu-volpe)と呼ばれる野生のネコ が生息しており、近年の研究で同種はコルシカ島固有の種であるとフランス生物多様性局により発表された[ 3] 。
都市
コルシカ(コルス)の旗
主要な都市はアジャクシオ (コルス=デュ=シュド県、南西部)とバスティア (オート=コルス県、北東部)、カルヴィ (オート=コルス県、北西部)、コルテ (オート=コルス県、中央部)、サルテーヌ (コルス=デュ=シュド県、南部)が挙げられる。これらのうち、コルテとサルテーヌは内陸部の都市だが、ほかは沿岸部の都市である。
都市の規模はいずれも小さい。最大の都市アジャクシオでも人口は6万人前後である[ 4] 。バスティアも同様である。カルヴィやコルテに至っては1万人にも満たない。
歴史
古代・中世
はるか昔には、山岳部に居住する先住民と外来の支配者に明確に区分されていた。先住民についてはその詳細は未だ解明されていないが、ケルト先住民 と共通する文明、例えば巨石文明 や人物の彫塑 のある石柱が島の南部に多数見られる。
一方、外来者は紀元前 にはフォカイア 、エトルリア 、カルタゴ などが、中継貿易 拠点としてコルシカ島の沿岸地帯の覇権を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡 がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争 で古代ローマ に敗れたため、紀元前3世紀 頃から島の支配権はローマに移る。
ローマはアレリアに都市を建造し、さらに北部バスティア南郊にマリアナを築く。ローマによる繁栄はしばらく続くが、ローマ帝国 が東西に分裂し、ゲルマン勢力 の侵入が始まると、コルシカ島には外部勢力、特に海賊 による襲撃が始まる。
6世紀 後半頃から、十字軍 によるイスラム 勢力のヨーロッパ からの駆逐が完了する11世紀 頃までこの状態が続き、島ではこの期間を「暗黒時代」と呼んでいる。山岳部の先住民たちはローマ時代には平地に降りて、ローマ人 と共存した時期もあったが、暗黒時代になると外部民族の襲撃を恐れて、再び山岳部の小集落(パエーゼ)に身を潜めて自給自足の生活にもどる。近代以降フランスではコルシカの独自の風習が取り上げられているが、その独自性はこの暗黒時代に遡ると思われる。
イタリア諸国領
ピーリー・レイース によるコルシカ島の地図
中世 になるとイタリア半島 の都市国家 、ピサ とジェノヴァ がコルシカ島を植民地支配する。ローマ教皇 の命により11世紀 にピサがコルシカ島を統治するが、その後ジェノヴァが徐々に島の沿岸地帯に城塞都市 を建造し、ピサからその支配権を奪い取ってゆき、13世紀 にはジェノヴァの支配が確立する。現在のコルシカにある都市のほとんどがジェノヴァ統治時代にジェノヴァによって建造されたものである。ジェノヴァの支配は過酷であり、島民はたびたび反乱を起こした。中世では16世紀 のサンピエール (フランス語版 ) (サンピエロ・コルソ)の反乱が最大のもので、これはジェノヴァによって鎮圧された。
コルシカ独立戦争
1729年に始まるコルシカ独立戦争 はかつてなく大規模かつ組織的な闘争だったためにジェノヴァはこれを抑えられず、1768年にジェノヴァとフランスはフランス軍をコルシカに派兵するかわりにジェノヴァは一定期間のコルシカ統治権をフランスに譲るという内容の、ヴェルサイユ条約 を締結した。一方のコルシカは1755年、独立運動の指導者パスカル・パオリ を首班とする独立政府を樹立し、コルシカの国歌や国旗、憲法、通貨や大学、徴兵制 など近代国家 の原型ともいえる制度も創出していった。フランス軍とコルシカ軍との間で戦争が始まると(en:French conquest of Corsica 、1768年 - 1769年)、1768年10月のボルゴの戦い (フランス語版 ) ではバスティア南郊でコルシカ軍はフランス軍を駆逐したが、1769年5月 のポンテ・ノーウ(ポンテ・ヌオーヴォ)の戦い (フランス語版 ) (フランス語 : Bataille de Ponte Novu 、イタリア語 : Battaglia di Ponte Nuovo )では、フランス軍の圧倒的兵力の前にコルシカ軍は敗れ去り、パオリは英国 に亡命する。これ以降、コルシカ島は完全にフランス領になった。のちにフランス皇帝 となるナポレオン・ボナパルト が生を享けるのは、この戦役から3か月後のことである。
フランス領
こうした歴史的背景もあって、コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義 運動が起きている。1975年8月に自治主義勢力(ピエ・ノワール )とフランス治安当局との間で激しい闘争(アレリア (フランス語版 ) 闘争)が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のコルシカ民族解放戦線 (FLNC) が組織されるが、1982年に地方分権 政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争 などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は [いつ? ] 失業で悶々としている島の若者たちを徴用するなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解を示しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である[ 5] 。
文化
ピサ・ロマネスク様式のアレンゴ の教会。ピサの影響が見て取れる。
コルシカ住民は文化や言語の面で、大陸部のフランス本土とは異なった面を持っている。
近年は [いつ? ] コルシカにおけるアイデンティティ の高まりにより、コルシカの文化やこれを基盤にした芸術などを見直すさまざまな活動が行われているが、その代表がかつての即興詩吟 をベースにしたポリフォニー である。複数人が楽器を使わずに奏でる多声の男声合唱 がその中心で、グループ「イ・ムヴリニ」(I Muvrini) がその代表格である。それ以外に「ア・ヴィレッタ 」(A Filetta)、「ティアミ・アディアレージ」(Chjami Aghjalesi)、「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」(Canta u Populu Corsu)、「スルディアンティ」 (Surghjenti) などのグループがある。伝統的な男性多声合唱については、2009年「パディエッラ 風の歌謡」(Cantu in paghjella) としてユネスコ の無形文化遺産 に登録されている。
現在の住民の日常語はフランス語 である。コルシカ語 も依然として、学校教育 やテレビ・ラジオ放送、広告・商標、文化活動などで盛んに用いられている。コルシカ語は公用語 ではないものの、コルシカ語を含むフランスの地域語(詳細はフランスの言語政策 を参照)は、2008年のフランス共和国憲法 改正により、フランスの文化遺産 であると新たに規定された(第75条の1)。
産業
コルシカ島の特産物 は、豚 および豚肉 燻製品 、クリ の粉から作った菓子類である。ワイン やチーズ の産地としても有名で、ワインは「パトリモニオ」や「ミュスカ・デュ・カップ・コルス」、チーズではフレッシュチーズのブロッチュ が有名である。クリで作られたビール 「ピエチュラ」(ピエトラ)もある。
観光・サービス業といった第三次産業 に大きく頼らざるを得なくなっている。だが、観光はシーズン期が7月 と8月 のみで、また近隣にフランスの大陸本土南岸のコート・ダジュール やスペイン のバレアレス諸島 にあるイビサ 、イタリア のリグーリア海岸 などの国際的リゾート 基地に囲まれており、激しい競争に晒されている。サービス業はスーパーマーケット などの小売業 の他、運輸 ・公務 関係者が圧倒的に多い。
なお、コルシカ島内では食料品をはじめとして衣料品、石油製品、住宅関連費用、電気、ガス、水道などにかかる付加価値税 がフランス本土よりも低く設定されている。
交通
ポルト=ヴェッキオ の港
コルシカ島には四つの空港 があり、パリ 、ニース 、マルセイユ などのフランスの地中海沿岸の都市と航空路 で連絡されている。作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ の最後の出撃地であったバスティア・ポレッタ国際空港 (en:Bastia – Poretta Airport ) もその一つで、当時は自由フランス軍 空軍の「ボルゴ飛行場」だった。一方、航路 はマルセイユ、ニース、トゥーロン 、イタリアのサヴォナ 、ジェノヴァ、サルデーニャ島との連絡があり、最高35ノット を誇る高速フェリー 路線もある。入島税・出島税が課せられる。
島内の都市間を結ぶ交通はアジャクシオ、バスティア、コルテ、カルヴィを連絡するコルシカ鉄道 があるものの便数は決して多くなく、ほかに1日に1、2便しかない都市間路線 バス もあるが、それ以外には公共交通機関 はない。よって島内の移動には、自動車 (レンタカー )による移動、タクシー の利用が交通機関利用よりも便利で効率的である。島内には国道193、194、196、197、198、200号線があるが、高速道路 はない。国道の道路事情は極めて悪かったが、1990年代 以降は徐々に改善されている。
ツール・ド・コルス
プロプリアーノ 市街近辺の海岸線
島の一般道を閉鎖して行われるラリー は『ツール・ド・コルス 』と呼ばれ、1956年から毎年開催。1973年から行われているWRC(世界ラリー選手権 )のラウンドにも組み込まれている。「直線が200mあったらコルスではない」とまで言われる、カーブだらけで荒れた路面のテクニカルなターマック (舗装路)ラリーコースとして数々の名場面を生み出している。
山岳地帯を縫うように走る断崖路で行われるこのイベントでは、ワークスドライバーであってもしばしば大事故を引き起こす。グループB 時代の1985年・1986年には、2年連続でランチアのワークスドライバーが死亡。1985年には、ランチア・ラリー037 を駆るアッティリオ・ベッテガ が立ち木に衝突して死亡。1986年には、ランチア・デルタS4 を駆るヘンリ・トイヴォネン がコースオフで崖から転落し、木に衝突した瞬間に起きた発火・爆発で死亡している。これらの事故は、グループBカテゴリ消滅のきっかけとなった。他にも1997年には、この年のワールドチャンピオンである三菱 のトミ・マキネン が路上に出てきた牛に衝突し、崖下に転落してリタイアしている。
脚注
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、
コルシカ島 に関連する
メディア および
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外部リンク