平岡 正明(ひらおか まさあき[1]、1941年(昭和16年)1月31日 - 2009年(平成21年)7月9日)は、日本の評論家。東京都出身。
東京市本郷区湯島新花町(現・東京都文京区湯島2丁目)に生まれる。1945年6月、空襲を避けて神奈川県足柄下郡酒匂町(現・小田原市)に疎開。酒匂小学校を経て、1949年7月に東京へ戻り、文京区立汐見小学校に転校。父が旭光学の社長の運転手になったため、同校6年の夏休みに東京都板橋区志村前野町の旭光学寮に転居。京華中学校を経て、1959年7月に同高等学校を卒業。同校では漢文を千田九一に、古文を竹盛天雄に、現代文学を古林尚・紅野敏郎に学ぶ。
7月卒業となったのは、高校の卒業試験を受けている時、カンニングの発覚を恐れて教師の前で答案を破り卒業保留処分を受けたためである[2]。もともと卓球推薦で日本大学に進むことが内定していたが、これにより推薦取消となり、1960年、古林尚の勧めで早稲田大学の第一文学部と第二文学部のそれぞれ露文科をロシア語で受験、後者に合格。二文露文科在学中、ブントの一員として60年安保闘争に参加。
やがてブントから脱退して1961年11月に宮原安春らと政治結社・犯罪者同盟を結成。在学中の1962年、谷川雁・吉本隆明らが講師だった「自立学校」の事務局に参加し、宮原安春とともに、講師だった森秀人に師事[3]。
1963年、同盟機関誌の単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』を刊行したところ、同書に収録した吉岡康弘撮影の無修正ヌード写真が問題となり、猥褻図画頒布の容疑で警視庁から指名手配を受け、戸塚警察署に逮捕されたが、起訴猶予処分となる。平岡らの身元引受人には森秀人がなった[4]。この『赤い風船』事件は早大の教授会でも議題となり、そのために「犯罪者同盟は『赤い風船』事件で退学にされた」と言われたこともあるが、赤い風船事件とは無関係であった[5]。なお、『赤い風船』に赤瀬川原平(赤瀬川も自立学校の生徒であった)の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、「千円札裁判」が起きるきっかけになった。
1964年、『韃靼人宣言』(現代思潮社)で評論家デビュー。1966年4月、石井恭二の世話で株式会社テック開発部づき雑誌編集部門に入社。このとき、同社の専務に谷川雁がいた。1967年の『ジャズ宣言』(イザラ書房)からジャズ評論の分野にも進出。1969年2月、講談社『ヤングレディ』誌のアンカーマンとなる。同年2月、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任者として『血と薔薇』第4号(天声出版)を編集。一方、「犯罪者同盟」以来のアナーキーな行動や著作で、「侠客的革命家」、「無頼漢」とも呼ばれ、新左翼系文化のカリスマ的存在となる。1970年には、松田政男、足立正生、佐々木守、相倉久人と「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。また、1970年代に入ると「水滸伝」をヒントにして、戦後の闇市での日本人ヤクザと「日帝に強制連行され、戦後は日帝に対する進駐軍として留まった」三国人の抗争などを引き合いに出し[6]、太田竜、竹中労らと窮民革命論を唱え、“新左翼三バカトリオ”と呼ばれたこともある。この理論は当時、連合赤軍事件後の新左翼各党派の退潮の後もあまり影響を受けずに、全共闘世代の一部に熱狂的に支持された[7]。この関連で、『中国人は日本で何をされたか』『日本人は中国で何をしたか』等のルポ作品も著している。このルポの調査に協力した一人が後の東アジア反日武装戦線の斎藤和だった[8]。
1971年、谷川との決裂は平岡を支援する文化人や、平岡同様に谷川ら経営陣と対立した高橋愿率いる労組と高橋が所属したベトナム反戦直接行動委員会[9][10](現代思潮社が起こした東京行動戦線の後身)に関連した若者達を巻き込んだ「テック闘争」と呼ばれる騒動に発展した[11]。1972年、台湾人軍属の楊明雄・戦後補償闘争に関与し、台湾独立運動を支援[7]。また、ミクロネシア・ボナペ島の軍属の遺児ダニエル・ロペスが戦後補償を求めて来日した際にこれを支援。この運動を契機に朝倉喬司、船戸与一、布川徹郎らとミクロネシア独立運動に身を投じた[12]。
1975年、斎藤や斎藤の内縁の妻で、テック及び楊、ロペス闘争等に参加した浴田由紀子、太田竜との繋がりから、東アジア反日武装戦線の黒幕ではないかとの容疑で捜査を受ける[13][12]。また、ミクロネシア独立運動も日本赤軍の別働隊としての活動ではないか、と大きく報道されたことがあった[14]。 「反日武装戦線」黒幕騒ぎや1970年代後半以降の新左翼の退潮後は、神奈川県葉山に転居し、主に文学や芸能の評論の分野で活躍。論評対象は、筒井康隆、五木寛之、山田風太郎、山口百恵、河内音頭、三波春夫、大山倍達など。特に筒井康隆とは個人的にも親交を結び、筒井論も多数執筆している。また、1990年代には3000枚に及ぶ大長編小説「皇帝円舞曲」を執筆。これは、自身や知人をモデルにして、三浦半島の独立と日本との戦争を描いた現代版水滸伝だが、女性はほとんど性奴隷か食料にされるなど、書きたい放題の怪作である。
また、1975年に山下洋輔が「全日本冷し中華愛好会」を結成すると、上杉清文、奥成達らと主要な論客として参加した。
大山倍達の極真空手にも入門し、有段者である。
1994年4月1日に中野サンプラザで行われた「筒井康隆断筆祭」に参加。その断筆祭を批判した小林よしのりに対して、著書『筒井康隆断筆をめぐるケンカ論集』の収録の、『「ゴーマニズム」の薄甘い正義』で反論した。
また、横浜の下町・野毛を拠点としたミニコミ、1992年から1994年まで「ハマ野毛」を編集、刊行。横浜に住まう、荻野アンナ・田中優子・山崎洋子らをはじめ、種村季弘ら多くの文学者が参加していた。また野毛大道芸にもプロデューサー的に関わり、野毛大道芝居には荻野アンナ、秋山祐徳太子と共に俳優として11年間参加した。 2004年には野毛の「横浜にぎわい座 芸能ホール」で行われる「うま野毛寄席」で、木戸番役としてデビュー。
大量の著書を出しているが、著作はほとんど文庫化されていない(「山口百恵は菩薩である」(講談社文庫)と、「日本人は中国で何をしたか」(潮文庫)「志ん生的、文楽的」(講談社文庫)のみ)。2001年に、四方田犬彦の編集によるベスト集『ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』(芳賀書店)が刊行されている。
評論は「ジャズ的なノリ」で書かれることが多かったが、「カルチュラル・スタディーズ」の先駆として評価する論者もいる。
2007年に刊行された『若松プロ、夜の三銃士』では、1970年代に書かれた「犯罪的革命と革命的犯罪を称揚」する文章を多数収録したり、また新たに執筆された文章で、韓国に帰国後に問題を起こして評判を落としている金嬉老を「それがどうした。彼は屹立する男根である」と擁護したり、「文化大革命は世界同時革命の一環であった。俺はいまでも文革シンパだ」と記述するなど、平岡の中では「革命/犯罪」思想が生きていることが明らかになった。一方で台湾人軍属の楊明雄・戦後補償闘争では楊の意向でともに靖国神社に参拝したが、2005年刊行の『昭和ジャズ喫茶伝説』では、「左翼は靖国に行くべきだというのが、俺の意見だ。戦死した兵隊の鎮魂を、もっぱら右翼と体制側に独占させるのはまちがいだろう」と記述している。
2009年7月9日午前2時50分、脳梗塞のため死去。68歳没。死去後も著書が刊行されている。
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