堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名近藤 浪之助(こんどう なみのすけ)[1][3][4][5]。松竹蒲田撮影所での主演俳優として、第2期の阪東妻三郎プロダクションの助演俳優として知られる[1]。
人物・来歴
1888年(明治21年)10月2日、東京府荏原郡品川町南品川(現在の東京都品川区南品川)に生まれる[1][3][4][5]。
『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業、1910年(明治43年)、井上正夫の一門に加わる[1]。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、初舞台は1909年(明治42年)に井上正夫一座が有楽座(現在の丸の内ピカデリー[要検証 – ノート])で上演した「新時代劇」である旨が記されている[2]。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)および『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)にも、数え年「22歳」のときに入門・初舞台としてあり、これは「1909年」のことであることを示している[3]。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』によれば、1914年(大正3年)には自らの一座を結成して、四国および九州を巡業したという[2]。日本映画データベース、ならびに文化庁の「日本映画情報システム」によれば、1917年(大正8年)には、小林喜三郎の小林商会が製作する映画に出演しており、同年4月25日および5月5日に公開されたサイレント映画に出演している[7][8]。小林商会は同年に倒産し、小林喜三郎は1919年(大正8年)12月6日に国際活映を創立しているのだが、『日本映画俳優全集・男優編』によれば、1920年(大正9年)には、井上が国際活映に入社、それにともなって堀川も入社、翌1921年(大正10年)には、井上ともども退社したとある[1]。
1922年(大正11年)、井上の門下を離れて、松竹蒲田撮影所に入社、同年8月21日に公開された『曳かれ行く日』(監督池田義臣)で主演に抜擢、栗島すみ子を相手に重要な役柄を演じた[1][7]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災によって、同撮影所は使用不能になり、京都の松竹下加茂撮影所に機能を移転、堀川もしばらく下加茂に異動した[1][7][8]。同年に発行された『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』では、荏原郡蒲田町大字北蒲田1323番地(現在の大田区蒲田5丁目)と撮影所至近に住み、身長は5尺3寸5分(約162.1センチメートル)、体重14貫200匁(約53.3キログラム)、妻子ありと記されている[2]。翌1924年(大正13年)には蒲田は復興し、堀川も復帰している[7][8]。1926年(昭和元年)12月末で同社を退社、翌1927年(昭和2年)には、京都・太秦の阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に移籍している[1][7][8]。同社の活動停止後は、阪東妻三郎プロダクションに移り、『暗夜のパノラマ』(監督小沢得二)等に主演したが、同プロダクションが1928年(昭和3年)には解散したので、小沢得二の小沢映画聯盟に参加した[1]。
1931年(昭和6年)1月、阪東妻三郎が「大日本自由映画プロダクション」を設立、京成電鉄が提供した千葉県千葉郡津田沼町大字谷津海岸(現在の同県習志野市谷津)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(のちの谷津遊園)を建設、堀川はこの設立に参加、同撮影所の第1作『洛陽餓ゆ』(監督東隆史)に出演する[1]。同撮影所は、反時代的にサイレント映画を製作し続け、堀川もこれに出演を続けたが、1935年(昭和10年)1月20日に公開された『彦左と九馬』(監督長尾史録、サウンド版)を最後に、閉鎖することになり、堀川は、阪東一党ともども、配給提携先であった新興キネマに移籍する[1][7][8]。
堀川の移籍先は、阪東らのように京都ではなく、同年、板橋区東大泉町(現在の練馬区東大泉2-34-5)に新設された新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)であった[1][7][8]。堀川は、同撮影所でも多くの映画に助演、1942年(昭和17年)1月10日、戦時統合により、新興キネマは日活の製作部門等と合併して大映を形成し、堀川もこれに継続入社したが、満54歳となった1943年(昭和18年)3月11日に公開された『風雪の春』(監督落合吉人)以降の出演記録が見当たらない[1][7][8][9][11]。時代は第二次世界大戦も深まり、その後の消息は不明である[1]。没年不詳。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
小林商会
すべて製作・配給は「小林商会」、すべてサイレント映画である[7][8]。
- 『誓』 : 監督不明、脚本西脇静雨、1917年4月25日公開
- 『上野夜話』 : 監督不明、1917年5月5日公開
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[7][8]。
- 『呪はれの日』 : 監督池田義信、製作松竹下加茂撮影所、1923年9月30日公開
- 『霧の小路』 : 監督池田義信、製作松竹下加茂撮影所、1923年10月20日公開
- 『夜の笑ひ』(『夜の笑』[8]) : 監督牛原虚彦、製作松竹下加茂撮影所、1923年11月29日公開
- 『たそがれの夕』 : 監督小沢得二、製作松竹下加茂撮影所、1923年製作・公開
- 『愛の力』 : 監督大久保忠素、製作松竹下加茂撮影所、1924年1月23日公開
- 『黄昏の街』 : 監督小沢得二、製作松竹下加茂撮影所、1924年2月10日公開 - 主演
- 『スヰート・ホーム』 : 監督池田義信、1924年2月10日公開
- 『嘆きの港』 : 監督島津保次郎、1924年4月23日公開
- 『委細面談』 : 監督池田義信、1924年5月7日公開
- 『踊りの夜』(『踊の夜』[8]) : 監督小沢得二、1924年5月31日公開
- 『悪太郎』 : 監督島津保次郎、1924年8月21日公開
- 『仙人』 : 監督島津保次郎、1924年10月1日公開 - 村の怠け者六造(主演)
- 『嘆きの孔雀』 : 監督池田義信、1924年11月21日公開 - 舞台監督の伯爵山上咲雄
- 『罪なき罪』 : 監督五所平之助、1924年12月13日公開
- 『寅吉懺悔』 : 監督安田憲邦、1925年1月13日公開
- 『郷土』 : 監督・主演勝見庸太郎、1925年1月22日公開
- 『浪の上』(『波の上』) : 監督安田憲邦、1925年1月31日公開
- 『或る女の話』 : 監督池田義信、1925年3月15日公開
- 『花見徳利』 : 監督吉野二郎、1925年4月19日公開
- 『地獄谷[要曖昧さ回避]』 : 監督吉野二郎、1925年5月31日公開
- 『女難』 : 監督蔦見丈夫、1925年6月12日公開
- 『愛の乱舞』 : 監督吉野二郎、1925年6月20日公開
- 『郵便馬車』[8][13](『郵便馬者』[7]) : 監督吉野二郎、1925年7月24日公開
- 『安全地帯』 : 監督吉野二郎、1925年8月28日公開
- 『屋上の恋人』 : 監督吉野二郎、1925年11月13日公開
- 『寂しき路』 : 監督池田義信、1925年11月20日公開 - 長島
- 『猿ヶ辻の暗殺』 : 監督大久保忠素、1925年11月20日公開 - 品川弥二郎
- 『忠治外伝 赤木颪』 : 監督吉野二郎、1925年12月20日公開
- 『御意見御無用』 : 監督池田義信、1925年12月31日公開 - 婿
- 『正ちゃんの蒲田訪問』 : 監督蔦見丈夫、1925年12月31日公開
- 『国定忠治 利根川の巻』 : 監督吉野二郎、1925年製作・公開
- 『紅燈の影』 : 監督島津保次郎、1926年4月3日公開
- 『お坊ちゃん』 : 監督島津保次郎、応援監督蔦見丈夫・五所平之助、1926年5月1日公開 - 今井直次(社員)
- 『万公』 : 監督島津保次郎、1926年6月15日公開
- 『秋の歌』 : 監督池田義信、1926年7月15日公開
- 『新お初地蔵』 : 監督野村芳亭、1926年7月15日公開
- 『仇討同志』(『仇討同士』[8]) : 監督吉野二郎、1926年7月24日公開 - 主演
- 『嘆きの薔薇』 : 監督清水宏、1926年10月26日公開 - 綾小路男爵
- 『黒髪夜叉 第一・二篇』 : 監督大久保忠素、1926年10月29日公開 - 宇津木要人
- 『黒髪夜叉 第三篇』 : 監督大久保忠素、1926年12月11日公開 - 宇津木要人
- 『黒髪夜叉 第四篇』 : 監督大久保忠素、1926年12月11日公開 - 宇津木要人
阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画
特筆以外すべて製作は「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」、配給は「ユニヴァーサル映画」、すべてサイレント映画である[7][8]。
- 『相寄る魂』 : 監督小沢得二、1927年3月3日公開
- 『大義』 : 監督安田憲邦・山上紀夫、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1927年3月19日公開 - 地謡
- 『当世新世帯』 : 監督小沢得二、1927年4月22日公開 - 主演
- 『新版走馬燈』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、1927年製作・公開 - 主演
- 『待ち人来る』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、1927年製作・公開 - 主演
- 『暗夜のパノラマ』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1928年1月15日公開 - 主演
- 『風流の侠児』(『風浪の侠児』[8]) : 監督安田憲邦、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1928年4月7日公開
阪東妻三郎プロダクション関東撮影所
特筆以外すべて製作は「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(谷津撮影所)、特筆以外すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[7][8]。
新興キネマ東京撮影所
特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、特筆以外すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてトーキーである[7][8]。
- 『女人祭』 : 監督田中重雄、サウンド版、1935年9月19日公開 - 久美子の父亮造
- 『人生双六より あわてた友情』(『あわてた友情』[8]) : 監督沼波功雄、1939年4月25日公開 - 材木商鈴木久三郎
- 『侠艶録』 : 監督田中重雄、1939年5月1日公開 - ぼたんの父三次
- 『海棠の歌』 : 監督深田修造、1939年6月15日公開 - 綾子の養父酒井釜吉
- 『泣き笑ひの天国』 : 監督須山真砂樹、1939年6月22日公開 - 踏切番山田
- 『歌う乗合馬車』(『歌ふ乗合馬車』[8]) : 監督沼波功雄、1939年7月25日公開 - 島本六助
- 『あきれた百万円』 : 監督沼波功雄、1939年8月31日公開 - 由兵衛の腹心の支配人前田
- 『暁の門出』 : 監督伊奈精一、1939年10月6日公開 - 六兵衛、56分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『子宝』 : 監督沼波功雄、1939年11月23日公開 - 番頭半三
- 『女剣戟三人娘』 : 監督青山三郎、1939年12月7日公開 - 平山金蔵
- 『若妻の夢』 : 監督沼波功雄、1939年12月30日公開 - 近東商事の大川専務
- 『素晴らしき喧嘩』 : 監督沼波功雄、1940年2月28日公開 - 番頭安五郎
- 『娘たずねて三千里』 : 監督沼波功雄、1940年5月23日公開 - ボスの治平
- 『花嫁の喧嘩』 : 監督沼波功雄、1940年7月7日公開 - 泰三の叔父作三
- 『光に立つ』 : 監督曾根千晴、1940年7月31日公開 - 隆の父平吉
- 『漫才タクシー』 : 監督萩野頼三、1940年8月29日公開 - カホル・タクシーの主人森田
- 『玩具工場』 : 監督沼波功雄、1940年9月28日公開 - 職人本田
- 『夢みる娘』 : 監督沼波功雄、1940年10月15日公開 - 孝子の養父で綿商の正木市造、34分尺で現存(NFC所蔵[18])
- 『笑ふ父』 : 監督沼波功雄、1940年12月15日公開 - 田所商店支配人浅田
- 『初春娘』 : 監督沼波功雄、1940年12月29日公開 - 中川
- 『新生の歌』 : 監督沼波功雄、1941年2月28日公開 - 源助爺、64分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『鉄の花嫁』 : 監督田中重雄、1941年4月10日公開 - 大杉
- 『鮒と将軍』 : 監督沼波功雄、製作新興キネマ京都撮影所、1941年4月24日公開 - 材木屋の隠居原田由兵衛
- 『素晴らしき結婚』 : 監督沼波功雄、1941年6月22日公開 - 河野清
- 『旋風街』 : 監督久松静児、1941年7月8日公開 - 横井剛
- 『飛び込んだ幸福』 : 監督沼波功雄、1941年7月15日公開 - 村長
- 『あの山越えて』 : 監督曾根千晴、1941年7月31日公開 - 大久保
- 『太陽先生』 : 監督深田修造、1941年11月13日公開 - 直木老人
- 『逞しき愛情』 : 監督沼波功雄、1942年3月1日公開 - 小使
- 『母よ嘆く勿れ』 : 監督深田修造、配給映画配給社、1942年4月16日公開 - 床屋の客、19分尺で現存(NFC所蔵[11])
脚注
参考文献
- 『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』、揚幕社、1923年
- 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』、映画世界社、1928年
- 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』、映画世界社、!930年
- 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『図説 東京流行生活』、新田太郎、河出書房新社、2003年9月13日 ISBN 4309760368
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
堀川浪之助に関連するカテゴリがあります。