久米 譲(くめ ゆずる、明治32年(1899年)11月29日 - 昭和20年(1945年))は、日本の俳優[1][2]。本名 西條 虎治(さいじょう とらじ)、初期芸名浅尾 工女次郎(あさお くめじろう)、粂西 譲(くめにし ゆずる)[1][2]。粂 譲(くめ ゆずる)とも表記される[2]。
1899年(明治32年)11月29日、東京府東京市浅草区芝崎町(現在の東京都台東区西浅草)に生まれる[1]。1908年(明治41年)、新派の俳優・柴田善太郎に入門し、子役としてのキャリアを始める[1]。1909年(明治42年)には、歌舞伎俳優・浅尾工左衛門の門下に入り、浅尾 工女次郎(あさお くめじろう)を名乗り、女形を中心に演じる。映画への出演は1920年(大正9年)に国際活映(国活)入社して以来で、同社巣鴨撮影所で監督の吉野二郎に認められたとされるが、当時の出演作についての記録は残っていない[1][2]。
1922年(大正11年)、吉野が国活を離れて松竹蒲田撮影所に移籍した際に、久米も行動をともにする[1]。同年4月16日に公開された、澤村四郎五郎が主演した吉野の監督作『実録忠臣蔵』に浅尾工女次郎の名で出演、多門伝八郎を演じた[2]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で撮影所が崩壊、京都の松竹下加茂撮影所に蒲田の製作機能が移転し、久米も京都に移動するが、下加茂で最初に出演した記録は、翌年1924年(大正13年)5月11日に公開された、枝正義郎監督の『恋の友禅 鶴吉と其兄』であった[2]。同年10月11日に公開された大久保忠素監督の『難波の福』以降、粂西 譲(くめにし ゆずる)と改名する[1][2]。1925年(大正14年)6月22日に公開された清水宏監督の『激流の叫び』を最後に、下加茂から蒲田に復帰し、久米にとっての復帰第1作、大久保忠素監督の『和蘭蛇お滝』をもって、久米 譲(くめ ゆずる)と改名する[1][2]。
1926年(大正15年)3月6日に公開された、吉野二郎監督の『孔雀の光 第一・二篇』を最後に松竹キネマを退社し、実演の巡業を行う[1][2]。同年秋までには日活大将軍撮影所に入社、最初の出演記録は、同年10月15日公開、池田富保監督の『水戸黄門』であり、丹波屋佐六を演じた[1][2]。同年11月15日公開の『長恨』、翌1927年10月14日公開の『下郎』といった伊藤大輔の監督作では、主演俳優を助演する大きな役を務めている[2]。
1941年(昭和16年)の初めごろまでに新興キネマに移籍、同年5月8日に公開された吉田信三監督の『羅生門』に出演、「隠陽の博士阿部の晴明」(安倍晴明)を演じた[1][2]。 1942年(昭和17年)1月14日に公開された森一生監督の『大村益次郎』では、江藤新平を演じた[1][2]。同年1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは日活京都撮影所等と合併し、久米は、日活京都が改称した大映京都撮影所に継続入社、同年5月14日公開、牛原虚彦監督の『維新の曲』に早速出演し、福岡藤次(のちの福岡孝弟)を演じている[1][2]。同年12月27日に公開された池田富保および白井戦太郎の共同監督による『富士に立つ影』に出演したのが、最後の出演記録である[2]。
1945年(昭和20年)、正確な月日は不明であるが、死去した[1]。45歳没。肺病(結核)を病んでいたようである[3]。
初期の活動写真では女形が女役を演じたが、大正に入ると女優がこれにとって代わった。彼女らは女形と違って不自然なかずら(カツラ)はかぶらず、髪をきちんと結った。こうなると男のかずらの不自然さが目立つようになり、久米や市川荒太郎、実川延松といったスタア連が頭の真ん中をばっさりと剃って、「お相撲でも仕事で髪を伸ばしているのだから、時代劇の役者が時代劇の頭をしていても不思議はない」と画期的な運動を起こした。
しかしこれは他に及ばず、彼らのみに終わってしまった。が、久米だけは日活に転じてからもかずらの工夫や研究をし、亀甲紗に毛を植えて生え際が自然に見える様なかずらを作り出した。ところが監督から「君だけが自然に見えるかずらをかぶったのでは他と釣り合いがとれぬからやめてくれ」と言われ、狂人扱いを受けるようになってしまった。
稲垣浩は久米と仕事をしておらず、特に親しくもなかったが、これを聞いて千恵プロで試すことにした。大会社では無理でも、この革命は小さな独立プロの千恵プロでは成功し、以来主要人物には亀甲紗のかずらを使うようになった。これを見て他社でも千恵プロを真似るようになり、地あたまに半かずらを使ったり、女優の生え際にも亀甲紗を使うよう改良され、現代ではこれが常識となった。そればかりか、映画人の工夫が舞台へ逆に使われるようになり、映画が舞台から教えられたお返しとなった。稲垣は「きっと久米君が冥途キネマで『僕の考えたことに間違いはなかった』と、ニヤニヤしていることだろう」と語っている[4]。
すべてクレジットは「出演」である[2]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[2]、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][6]。