中村市(なかむらし)は、高知県西部に位置していた市。
2005年(平成17年)4月10日、隣接する西土佐村と合併し、四万十市(しまんとし)となった[1]。
概要
高知県西部(幡多郡)の中心都市である。中心市街地は碁盤目状に区画されており、「土佐の小京都」として知られる。戦国時代には土佐一条氏の城下町であった。
なお隣接市町村に「四万十町」があり、隣同士で混乱しやすいため、道路標識では“四万十市”は「(旧)中村」、“四万十町”は「(旧)窪川」と表示されている。市内にある警察署が合併前から名称が変わらず「中村警察署」のままとなっているのもこのためである(四万十町内にも警察署があるが、そちらも合併前から変わらず「窪川警察署」のままとなっている)。「中村」と区別する際には、「土佐中村」や「高知県の中村」という。
地理
中心部付近は、四万十川によって形成された沖積平野である中村平野が広がっている。市域の大半は山林であった。
- 山: 堂ヶ森 (857m)
- 川: 四万十川、後川・岩田川(四万十川支流)、中筋川
歴史
国造が割拠した7世紀には、中村は、都佐国造ではなく波多国造の領土に属していた。律令制が敷かれると、都佐国造と波多国造が合併して土佐国となり、旧の波多国造の領土は幡多郡となった。
戦国時代、とりわけ土佐一条氏時代の中村は、「土佐の京都」とか「小京都」と呼ばれていた[2]。京都をモデルとした都市造りが行われ、幡多郡の中心地へと発展した。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。
江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内に入った。
沿革
行政
歴代市長
特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる。
代 |
氏名 |
就任 |
退任 |
備考
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1 |
森山正 |
1954年(昭和29年)5月2日 |
1962年(昭和37年)5月1日 |
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2 |
長谷川賀彦 |
1962年(昭和37年)5月2日 |
1974年(昭和49年)5月1日 |
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3 |
中村清 |
1974年(昭和49年)5月2日 |
1976年(昭和51年)8月2日 |
辞職
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4 |
西村正家 |
1976年(昭和51年)8月22日 |
1984年(昭和59年)8月21日 |
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5 |
刈谷瑛男 |
1984年(昭和59年)8月22日 |
1992年(平成4年)8月21日 |
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6 |
岡本淳 |
1992年(平成4年)8月22日 |
1996年(平成8年)8月21日 |
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7 |
澤田五十六 |
1996年(平成8年)8月22日 |
2005年(平成17年)3月31日 |
廃止
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姉妹都市・提携都市
国内
海外
教育
中村市廃止時点で現役校の学校について記載するが、太字の学校は2018年7月現在において「四万十市立」として存続しつつも休校中であることを示す。
高等学校
中学校
県立中学校
市立中学校
- 中村市立後川中学校
- 中村市立大川筋中学校
- 中村市立大用中学校
- 中村市立片魚中学校
- 中村市立竹屋敷中学校
- 中村市立中筋中学校
- 中村市立中村中学校
- 中村市立中村西中学校
- 中村市立東中筋中学校
- 中村市立下田中学校
- 中村市立八束中学校
- 中村市立蕨岡中学校
小学校
- 中村市立大用小学校
- 中村市立片魚小学校
- 中村市立勝間小学校
- 中村市立川登小学校
- 中村市立具同小学校
- 中村市立下田小学校
- 中村市立常六小学校
- 中村市立竹島小学校
- 中村市立竹屋敷小学校
- 中村市立田野川小学校
- 中村市立利岡小学校
- 中村市立中筋小学校
- 中村市立中村小学校
- 中村市立中村南小学校
- 中村市立東中筋小学校
- 中村市立東山小学校
- 中村市立八束小学校
- 中村市立蕨岡小学校
特別支援学校
交通
鉄道路線
道路
国道
観光地・祭事
著名な出身者
脚注
- ^ a b c d e 真明薫(2015年3月21日). “ご当地ナンバー:沈下橋とウナギ 四万十市・5月から”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
- ^ 中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年)227頁
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、104頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
参考文献
- 中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年)
- 『市町村名変遷辞典』(東京堂出版、1990年)
- 歴代知事編纂会 編集『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』 第3、歴代知事編纂会、1983年。
関連項目
外部リンク