中村吉十郎 (初代)

しょだい なかむら きちじゅうろう
初代 中村吉十郎
初代 中村吉十郎
1925年の写真、満40歳。
本名 臼杵 春一 (うすき しゅんいち)
生年月日 (1885-07-29) 1885年7月29日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市下京区
身長 161.2cm
職業 俳優歌舞伎役者、元子役
ジャンル 歌舞伎剣劇劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1888年 - 1945年
配偶者
著名な家族 二代目中村吉十郎(子息)
臼杵吉春(孫)
主な作品
雷電為右衛門
芥川孝子の仇討
新撰組 前篇
新撰組 後篇
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しょだい なかむら きちじゅうろう
初代 中村吉十郎

1923年の写真、満38歳。
屋号 播磨屋
定紋 揚羽蝶
生年月日 1885年7月29日
没年月日 不詳年
本名 臼杵 春一 (うすき しゅんいち)
襲名歴 1. 臼杵 春一
2. 初代 中村吉十郎
俳名 不詳
出身地 京都府京都市下京区
二代目中村吉十郎
当たり役
黒手組六助』の揚巻

初代 中村吉十郎(しょだい なかむら きちじゅうろう、1885年7月29日 - 没年不詳)は、日本の俳優歌舞伎役者、元子役である[1][2][3][4][5][6][7]。本名は臼杵 春一(うすき しゅんいち)[1][2][4][5][6]初代中村吉右衛門門下の歌舞伎役者から映画界に転向、日活京都撮影所において、尾上松之助の後を継ぐ二枚目スターとして活躍した[5][6][7]

来歴・人物

1885年(明治18年)7月29日京都府京都市下京区に生まれる[1][2][3][4][5][6][7]

1888年(明治21年)、満4歳の時に京都府京都市にあった四條道場(後の新京極歌舞伎座、現在の京都松竹阪井座ビル)にて初舞台を踏み、『佐倉宗五郎』で四代目嵐橘三郎の扮する宗五郎の末子を演じた[1][2][3][4][5][6]。その後、たまたま同地に赴いていた初代中村時藏(後の三代目中村歌六)に見出され、初代中村吉右衛門の門下となる[1][2][3][4][5][6][7]。以降、初世吉右衛門と共に京都府や東京府(現在の東京都)、大阪府愛知県名古屋市の三府一県を中心に各地を巡業した[4]。この間、正確な年月日は不明だが、1914年(大正3年)に実業家小林喜三郎が創設した小林商会池袋撮影所の専属俳優に転向し、1917年(大正6年)4月1日に公開されたサイレント映画小三金五郎』で映画初出演、その後も同年8月にかけて数本の作品に出演しており、市川海老十郎片岡市女蔵嵐松五郎らと共演した記録が残っている[8]

1922年(大正11年)7月、日活京都撮影所に所属していた中村扇太郎嵐橘楽の相次ぐ急逝に伴い、当時松竹蒲田撮影所に在籍していた阪東左門と共に引き抜かれて入社[2][3][4][5][6][7]。同年8月2日に公開されたサイレント映画『猿飛佐助』をはじめ、もっぱら尾上松之助主演映画の二枚目役として活躍する[4][5][6][7]。ところが、関東大震災直後の1925年(大正14年)から次第に松之助映画の製作本数が減少すると、代わって初世吉十郎の主演映画が作られるようになり、女優岡田嘉子と組んだ同年5月29日公開の築山光吉監督映画『芥川孝子の仇討』などに出演[5][6][7]。後に日活京都の剣戟スターとなる河部五郎大河内傳次郎が入社するまでの間、初世吉十郎は實川延一郎片岡松燕市川市丸らと共に主演俳優として活躍した[5][6][7]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)など一部の資料によれば、京都府京都市上京区紫野北舟岡町(現在の同市北区)、後に京都府京都市上京区大将軍一条町日活大将軍撮影所内(現在の同市北区)に住み、身長は5尺3寸2分(約161.2センチメートル)、体重は13貫(約48.8キログラム)、趣味は大弓である旨が記されている[1][2][3][4]

1926年(大正15年)3月31日、同年5月13日に公開された波多野安正監督映画『敵討日月草紙 後篇』に出演したのを最後に、大谷鬼若と共に日活を退社[5][6][7][9]。退社後は歌舞伎の舞台に戻り、第二次世界大戦終結直前である1945年(昭和20年)6月、市川喜代子片岡松右衛門大友柳之介松園桃子らと共演した新京極新富座での公演まで出演記録が確認できる[10]。その後、同年12月になると、当時二代目中村吉兵衛を名乗っていた子息の臼杵春太郎(1907年 - 1977年)が、東京劇場において二代目中村吉十郎を襲名するが、終戦後の初世吉十郎の消息は伝えられていない[5][6][7]没年不詳

出演作品

小林商会池袋撮影所

全て製作は「小林商会池袋撮影所」、配給は「小林商会」、全てサイレント映画である。

日活京都撮影所

全て製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。

日活大将軍撮影所

全て製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『現代俳優名鑑』八宏社、1923年、24頁。 
  2. ^ a b c d e f g 『映画新研究十講と俳優名鑑』朝日新聞社、1923年、160頁。 
  3. ^ a b c d e f 『俳優大観』春草堂、1924年、102頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i 『日本映画年鑑 大正13年・14年』東京朝日新聞発行所、1925年、131頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優全集 男優編』キネマ旬報社、416-417頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 『芸能人物事典 明治・大正・昭和』日外アソシエーツ、426頁。ISBN 978-4816915130 
  7. ^ a b c d e f g h i j 『日本映画興亡史Ⅱ 日活時代劇』ワイズ出版、2002年、44頁。ISBN 978-4898301265 
  8. ^ 『活動写真雑誌』1920年12月号、八展社、64頁。
  9. ^ 『日本映画事業総覧 昭和2年版』国際映画通信社、1927年、311頁。
  10. ^ 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編、2005年、210頁。 

関連項目

外部リンク

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