ミシェル・ウィング・クワン (英語 : Michelle Wing Kwan 、中国語 繁体字 :関穎珊、1980年 7月7日 [ 2] - )は、カリフォルニア州 ロサンゼルス 出身の女性 元フィギュアスケート 選手。香港系アメリカ人。現在は駐ベリーズ 大使。
1998年長野オリンピック 女子シングル銀メダリスト。2002年ソルトレークシティオリンピック 女子シングル銅メダリスト。5度の世界フィギュアスケート選手権 優勝、9度の全米フィギュアスケート選手権 優勝。アメリカの国民的大スターでもあった。2001年ジェームスサリバン賞 受賞。
人物
ファーストネームの「ミシェル」は、ビートルズ の曲名から取られている。
競技での偉大な実績に加え人柄の良さでも有名であり、世界中でも彼女のことを慕う後輩スケーターは多い(キム・ヨナ 、キミー・マイズナー 、長洲未来 、キャロライン・ジャン らは彼女を憧れとしている)。
表現力の評価の高い選手であった。ニコライ・モロゾフ はクワンを「心で滑る演技、見る者の魂に響くような演技が出来た女子で唯一の選手」と評している[ 3] 。
2005年より、家族らと共にアイスリンクとスポーツセンターを経営している[ 4] 。姉のカレン・クワン は全米6位になったことのある元スケーター[ 5] 。1988年カルガリーオリンピック ペア銅メダリストのピーター・オペガード は義兄にあたる。また、「スポーツを通じて青少年の能力を向上させる委員会(Council to Empower Women and Girls Through Sports)」の委員に任命されるなど、国務省の使節としてホワイトハウスを拠点に活動しているほか、2008年からは中国系アメリカ人 の組織である百人会 (英語版 ) の一員としても活動している。
2006年にデンバー大学 (University of Denver)に入学、2009年6月に主専攻の国際関係学と副専攻の政治科学の学位を取得して卒業した。過去にカリフォルニア大学ロサンゼルス校 に在籍していたこともある[ 6] [ 2] 。2009年9月、フレッチャースクール 法律外交大学院修士課程に進学し、2011年に修了。
2013年1月19日に弁護士でアメリカ国家安全保障会議 で戦略的計画の指揮を執るクレイ・ペルと結婚[ 7] 。2017年3月に離婚した[ 8] 。
経歴
1993 - 1998
1993-1994シーズン、幕張 で開催された世界選手権 に13歳で初出場し、8位入賞(リレハンメル五輪代表のケリガン とハーディング が不出場のため、繰上げてのアメリカ代表となる)。
1994-1995シーズンの世界選手権、当時14歳のクワンは150cmの小さな少女だったが、ショートではミスの無い演技、フリーでも5種類7回の3回転と2アクセル2回成功させ完璧な演技をし4位入賞。
1995-1996シーズン、身長も158cmに成長したクワンは大人の魅力を前面に押し出した演技で、スケートアメリカ 、スケートカナダ 、ISUグランプリファイナル 、全米選手権 で優勝、続く世界選手権も制し、15歳で初の世界チャンピオンとなった。この世界選手権では陳露 との一騎討ち となり、先に滑った陳露 が芸術点で満点である6.0点を2つ出し優勝間違いなしと思われていたが、クワンも満点を2つ出し、ショートで1位につけていたクワンの勝利となった。
1996-1997シーズン、スランプに陥っていたクワンの前に新星タラ・リピンスキー が登場する。3回転-3回転のコンビネーションを確実に成功させるリピンスキーに全敗、グランプリファイナル、全米選手権、世界選手権は全て2位に終わる。
1997-1998シーズン、クワンは右足首の怪我のため長期間の休養を余儀なくされ、オリンピックの選考会となる全米選手権の出場を危ぶまれたが、痛み止めの注射をして挑み、ショート・フリーとも完璧な演技でリピンスキーを破り2度目の優勝。長野オリンピック アメリカ代表に選出される。
長野オリンピックではクワンとリピンスキーの一騎討ちとなり、ショートプログラム ではクワン1位、リピンスキーは2位につく。フリースケーティングでは5種類7回のジャンプを完璧に決め、技術点ではほぼ5.8、芸術点では全員一致で5.9という高得点を得て一旦は首位に立ったが、クワンの飛ばなかった3回転-3回転のコンビネーションを2つ成功させたリピンスキーに逆転されてしまい、総合2位の銀メダル獲得に終わった。続く世界選手権ではリピンスキーの欠場も有り、2年ぶり2度目の優勝を果たした。
1998 - 2002
2001/2002年GPファイナルでのクワン
1998-1999シーズン、グランプリシリーズは全て辞退し、全米選手権で3度目の優勝、世界選手権は2位に終わる。
1999-2000シーズン、クワンは3回転-3回転を含むジャンプ偏重の構成でスケートカナダ、スケートアメリカ、全米選手権で4度目の優勝、世界選手権でも3度目の優勝を果たす。
2000-2001シーズン、スケートアメリカ、全米選手権で5度目の優勝、世界選手権でも2年連続4度目の優勝を果たす。
2001-2002シーズン、シーズンの初めに12年間コンビを組んできた名コーチ、フランク・キャロルとの師弟関係を解消(大親友ともいえる彼らの仲の深さはスケート界でも有名であったため、不仲説、方向性の相違など様々な憶測が囁かれたが、二人とも不仲説は完全否定)。スケートアメリカで優勝。スケートカナダでは2位、グランプリファイナル も2位に終わる。五輪選考となる全米選手権で6度目の優勝、ソルトレイク アメリカ代表に選出される。
2002年2月のソルトレイクシティオリンピック では、ショートプログラム で首位に立つも、フリースケーティング ではジャンプのミスがあり3位。結局金メダルのサラ・ヒューズ 、銀メダルのイリーナ・スルツカヤ に抜かれ、総合でも3位に落ちてしまい銅メダル獲得に終わった。ソルトレイク五輪後、引退が囁かれる中現役続行を公言。世界選手権は優勝したスルツカヤに次いで2位だった。
2002 - 現在
2002-2003シーズン、スケートカナダで優勝、全米選手権で7度目の優勝、2003年世界選手権 で2年ぶり5度目の優勝を果たす。
2003-2004シーズン、全米選手権で8度目の優勝、2004年世界選手権 はショートはコーエン 、荒川静香 、安藤美姫 に次いで4位、フリーは演技直前にリンクへカナダ人男性乱入のハプニングがあったにもかかわらず、素晴らしい集中力を見せる。最後のルッツジャンプがダブルになった以外はほぼノーミス、5人のジャッジから芸術点6.0の評価を受け、荒川に次ぐ2位だったが、総合では3位に留まった。2004-2005シーズン、全米選手権で8年連続9度目の優勝を果たす。だが2005年世界選手権 では予選演技の出遅れが響き、SP・フリー共に3位だったが総合で4位に終わり、1995年世界選手権以来10年ぶりにメダルを逃した。なおクワンの公式競技会への出場は、同世界選手権が最後となった。
2005-2006シーズン、トリノオリンピック 出場権が決まる全米選手権を、足の怪我のため欠場。そのため米国フィギュアスケート連盟に嘆願し、その審査会では技を成功させたのと実績が考慮され、一旦は特例で五輪出場権を獲得していたが、この事は米国内のマスコミに非難された。しかしながら公式練習中に鼠径部の怪我が悪化したため、女子フィギュアスケート競技開催数日前の2006年 2月12日 に、記者会見で五輪出場取り止めを発表した(テレビ局と連盟とクワンの間での契約がトリノの開会式にさえ出れば成立していた為)。クワンの代替選手として、全米選手権で3位ながら当初補欠だったエミリー・ヒューズ が急遽繰り上がり7位入賞[ 9] 。
トリノ五輪後の2006年4月に、自国アメリカでのアイスショーに出演した。その際のインタビューでは現役引退を否定したものの、2006-2007シーズンは怪我、2007-2008シーズンも足の手術後の回復と学業専念のため、全試合を欠場。またバンクーバーオリンピック を控える2009-2010シーズンも、国際関係学の修士号取得を目指すという理由で結局競技復帰を断念[ 10] 。なお2010年 2月開催のバンクーバー五輪では、競技コメンテーター などで登場していた。
2011年12月15日、世界フィギュアスケート殿堂 入りが決まり、2012年1月28日全米選手権女子フリーの開催日に、スケートリンク(California州San Jose HP Pavilion)にて表彰された。
2021年12月15日、ジョー・バイデン 米大統領はクワンを駐ベリーズ 大使に指名すると発表した[ 11] 。2022年9月29日にこの人事案が上院で承認された[ 12] 。
主な戦績
シニア
プログラム
脚注
外部リンク
ISUグランプリシリーズ(1995-)
名称の変遷:スケートカナダ(1973-現在)/ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(1995-現在)
名称の変遷:スケートアメリカ(1979-現在)/ISUグランプリシリーズ スケートアメリカ(1995-現在)
名称の変遷:ラリック杯(1987-2003)/ISUグランプリシリーズ ラリック杯(1995-2003)/ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯(2004-2015)/フランス杯(2016)/フランス国際(2017-2021)/フランスグランプリ(2022-)
名称の変遷:富士フイルム杯(1986-1987)/ネイションズ杯(1989-1994)/ISUグランプリシリーズ ネイションズ杯(1995-1996)/ ISUグランプリシリーズ スパルカッセン杯(1997-2001)/ISUグランプリシリーズ ボフロスト杯(2002)/ボフロスト杯(2003-2004)