Pattee MallBrill HallPenn State, Huck Institute of the Life Sciences
ペンシルベニア州立大学(ペンシルベニアしゅうりつだいがく、英語:The Pennsylvania State University)は、 アメリカ合衆国ペンシルベニア州に位置する名門州立大学。 QS世界大学ランキングでは、世界第83位にランクされている。
概要
学生数は本部キャンパスのみで40,000人(学部生・大学院生計)、全体では80,000を超える。アメリカの州立大学の屈指の名門校として「パブリック・アイビー」の一つに数えられるが、私立のアイビーリーグ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)とは異なる。
U.S. News & World Report 誌の大学ランキングでは、同校は全米の公立大学の中で第14位にランクされており、さらに同誌の2016年版専攻別ランキングでは工学部全体で全米18位、航空宇宙工学で全米16位、物質工学で全米10位、生産技術(経営工学)では全米9位と、アメリカ屈指の名門工科大学の1つとされる。Times Higher Educationでは、毎年世界50位~150位程度にランクされており、世界トップクラスの教育・研究機関としても有名である。
同校は1855年2月22日にペンシルベニア農業高校として創立された。1862年に「ペンシルベニア農業大学」に改称。1875年には「ペンシルベニア州立大学」(Pennsylvania State College)と改称された。現在のPennsylvania State Universityという名称になったのは1953年のことである。
ペンシルベニア州立大学は州立の総合大学であるが、フィラデルフィアにあるアイビーリーグの名門ペンシルバニア大学(私立)とは異なる大学組織である。とりわけ理系に強く、建築学・工学・理学の学問分野では、軒並み全米のベスト20に入っている。また経済学や経営学の分野にも強く、特に、ロジスティクス研究では学部全米5位タイ、大学院全米8位にランクされている。経営大学院のスミール・カレッジ・オブ・ビジネス(Smeal College of Business)は、全米TOP40前後となっている。アメリカ全土に約2300校の大学が存在する事を踏まえ、工学分野ではアイビーリーグに引けを取らない名門だと考えられている。アイビーリーグの中にも、ペンシルバニア州立大学より工学部専攻のランキングが低い大学が存在する。
バスケットボール選手。ペンシルバニア州立大学入学後、アメリカンフットボールとバスケットボールの選手として活躍し、1954年、バスケットボールチームを the 1954 NCAA Final Fourに導き、彼自身もAll American, the 1954 NCAA All-Tournament team and the East Regional Most Valuable Player.に選ばれた。卒業後、NFLのドラフトにも名前が挙げられたが、バスケットボールのNBLの方を選び、the Fort Wayne Pistons でプレーし、1956年2月に負傷した。その後、空軍、Peace Corps 勤務を経て、Dickinson Law School を1962年に卒業し、弁護士となった。1969年、ペンシルバニア州立大学 Board of Trustees のメンバーに選ばれ、後年来日し日本人を支え、2014年には名誉Trusteeに、2016年にはChairに、同年、同学Distinguished Alumnusに選ばれた。
ペンシルバニア州立大学アメリカンフットボールチームで活躍し、1973年にSenior Tailbackとして1,522ヤード、17タッチダウンを稼ぎ、ハイズマン賞やthe UPI College Football Player of the Yearなどを受賞した。チームも全米1位となる。1976年4月に白血病で死去した弟のジョーイとジョンを含む家族の模様は書籍化の後、『ジョーイ』としてテレビ映画化され、日本を含むアメリカ国外では映画として公開された。卒業後、プロに転じ、NFLのロサンゼルス・ラムズとサンディエゴ・チャーチャーズでランニングバックを務めた。
実業家。ペンシルバニア州立大学で商業及びファイナンスを専攻し、1948年に卒業した。1949年には、Harvard Business Schoolに入学を許可されたが、新しい Merrill Lynch 証券会社のインターンシップに入ることを選択した。1982年には同社社長、翌年には会長兼CEOに就任し、8年間在任した。1997年には、妻のJoan (née Legg)と共に、3000万ドルを、母校に寄付し、グローバルリーダー養成教育などのための The Schreyer Honors College を創設。米日のみならず海外出身の後輩達にも目をかけた。後年、同学 President of Board of Trusteesを務めた。
銀行家。ペンシルバニア州立大学でホテル経営学を専攻して、1959に卒業し、妻のBarbaraは、同学を1957年に卒業した。1964年、エドワードは、Marine Bankに入行し、1969年、the Stonier Graduate School of Banking at Rutgers で修士号を取得した。その後、同行は PNC Bank Northwest Pennsylvaniaに吸収合併され、1974 年、彼は、PNC Bankの頭取に、1983年には、会長兼 CEO に就任した。その後、1986年から 2010年まで、ペンシルバニア州立大学の Board of Trusteesのメンバーとして貢献し、その President にも就任し、2010年、名誉 trusteeに選ばれた。この間、Junkerは、フットボールやBehrendキャンパスの経営などを支援し、数々の栄誉や賞を受け、2011年には、同学Distinguished Alumnusに選ばれた。
第16代総長グラハム・スパニエの妻。University of Illinois ChicagoでBAを、ペンシルバニア州立大学でMAとPh.D.を取得後、同学でEdwin Erle Sparks Professor of English and Women's Studies, the general editor of The Cambridge Edition of the Letters of Ernest Hemingway などを務める。専攻は、American Literature After 1990, Book History and Textual Studies, Modernist Studies。
米国 Purdue 大学でPh. D.を取得後、Carrnegie Mellon大学機械工学科助教授、ペンシルバニア州立大学機械工学科教授、ジョージア工科大学機械工学科長などを務めた後、ペンシルバニア州立大学工学部長、同学筆頭副学長兼Provostを務めた。またNational Science Foundation Director of Engineering などに就任した。
工学者・規制科学者・エコノミスト、産業フロンティア研究会代表 。ペンシルバ二ア 州立大学 Department of Engineering Science and Mechanics (Honors Department) に学び、Master of Science Degreeを1976年に取得。1998年、ペンシルバ二ア州立大学の Board of Trusteesより日本出身の卒業生として初めて"Distinguished Alumnus Award"を授与された。(写真・学歴・学術活動等: Hiroshi Honda 1042 Facebook)
ミネソタ州出身のOswaldは、インディアナ州の私立大学DePauw Universityで植物学を専攻しBSを取得後、1942年、The University of California (UC)でPh.D.を取得した。1946年、UC Davis Campus植物病理学専攻助教授となり、1954年、Berkeley Campus植物病理学科長に就任し、1962年、UC州全体システム副学長となった。1963年、the University of Kentucky総長となり、15のブランチキャンパスを創設し、1968年、UCに戻り、全UC executive vice presidentを務めた。1970年、第13代総長に就任し、the American Council on Education Chair (1972-73)などを務め、数々の業績を残した。年に一度の海外留学生の為のレプションにも出席し、1983年に退任後、 Philadelphia に自宅を設け、同学Ogontz Campusにオフィスを与えられた。
the University of Texas at Austinで音楽を専攻し、学士号と修士号を取得後、教諭体験を経て、1956年、the University of North Carolina at Chapel Hill にてhistorical musicologyを専攻しPh.D.を取得。その後、the University of Maryland で音楽学教授、the University of Kentuckyで、Head of Department of Music, the University of Texas at Dallas総長などを歴任した後、ペンシルバニア州立大学第14代総長 (1983-90) に就任した。任期中、Minority Studentに対する施策や、同学が スポーツ活動においてBig Ten Conferenceに加盟する事などに注力し、これを1990年に果たした。
The University of MinnesotaでBSとMSを取得後、1973年、The University of Washingtonにおいて、地理学分野でPh. D. を取得し、the University of Wisconsin-Madisonで教鞭を取った。その後、ペンシルバニア州立大学助教授となり、1984年に教授に昇進した。1995年、dean of the graduate school、1997年、 vice president for research、1999年7月、provost and executive vice president 、2011年から2014年まで、第17代同学総長に就任した。
14th president of Florida State University, director of the National Center for Atmospheric Research in Boulder, Coloradoなどを務めた後、第18代ペンシルバニア州立大学総長(May 2014-May 2022)を務めた。専攻は地理学(MS)及び海洋科学(Ph. D.)で、国立研究所では大気科学分野も担当した。ペンシルバニア州立大学総長時代には、President's Council に、日本出身のメンバーを歓迎するなど、大学の多様化に積極的であった。
インドのAndhra Universityで学士号と修士号を取得し、米国の the University of Kansasで、marketing分野において Ph.D. を取得した。その後、Ohio State University と Texas A&M Universityで教鞭を取り、2016年7月、the University of Kansas に戻り、the dean of the University of Kansas School of Business, provost and executive vice chancellor of the University of Kansasに就任した。2018年5月15日から2021年12月13日まで、第18代 the University of Louisville 総長を務め、2022年5月9日、女性としてかつ非白人として初の (第19代) ペンシルバニア州立大学総長に就任した。
教育管理学者。ペンシルバニア州立大学の Center for the Study of Higher Educationに在任中の1971年8月に、David W. Leslieとともに、The Academic Senate at The Pennsylvania State Universityと題する報告書を出版した。