Petrus Plancius. J. Buys/Rein. Vinkeles (1791).
ペトルス・プランシウス (Petrus Plancius、1552年 - 1622年 5月15日 )は、フランドル 地方生まれのオランダ共和国 の天文学者 、地図製作者 、聖職者 。多くの星図や天球儀 を制作し、現在も使われている4つの星座を考案した。カルヴァン派 の牧師としては、マルティン・ルター やレモンストラント派 のヤーコブス・アルミニウス やフォルシュティウス (英語版 ) の教義に反対した。
生涯
現在のベルギー 、ヴェスト=フラーンデレン州 フーフェルラント地方ドラヌーテル村(Dranouter)で Pieter Platevoet (ピーテル・プラーテフート) として生まれた。オンショオット (英語版 ) の学校で学んだ後、イギリス で数学 、天文学 、地理学 、神学 、歴史学 と外国語を学んだ。彼は専攻していたラテン語 に倣い、名前を Petrus Plancius と変えた。
1576年に24歳で改革派教会 の牧師となった彼は伝道のために全国を旅した。15世紀末にハプスブルク家 の支配下となり、厳格なカトリック として知られたフェリペ2世 がネーデルラント王として君臨していた八十年戦争 下の当時としては、これは大変危険な行いであった。彼はメヘレン 、ブリュッセル 、ルーヴェン などで7年間活動した。この間、1579年に未亡人の Johanna Geubels と結婚している。1585年にアレッサンドロ・ファルネーゼ がベルヘン・オプ・ゾーム を占領すると、彼は異端審問 を避けるためにアムステルダム に逃れ、そこで説教師に任命された。アムステルダムで、プランシウス夫妻は8人の子宝に恵まれた。
自然科学 、航法 と地図学 への興味をますます強くした彼は、1590年にメルカトル の地図を改良した5つのオランダ語版の地図を出版した。1592年には、スペイン国王の地図製作者であったバルトロメウ・ラソ (ポルトガル語版 ) の海図 をポルトガル から輸入し、当時最新の情報を元に Nova et exacta Terrarum Tabula geographica et hydrographica を制作した。
プランシウスは、東インド との香辛料貿易 を狙ってアムステルダムの商人たちが1594年に設立した遠国会社 (英語版 ) に対して助言した。スペイン やポルトガルの海軍力との衝突を避けるため、彼は艦隊司令官のウィレム・バレンツ に、天測航法 で北アジアを周る未知の航路を進むことを推奨した。しかしながら、1595年から1597年にかけての三度の試みでもこの北東航路 は見つけられなかった。
同じ頃、南の航路にも挑戦することとなり、このときも商人たちはプランシウスに助けを求めた。当時、コンパスの磁針 が不一致を示すのは、南に突き抜けたからである、と信じられていた。シモン・ステヴィン とプランシウスは正しい答えを探した。プランシウス(もしくはメチウス )は、フレデリック・デ・ハウトマン に天体測量を教えた。また、プランシウスは航海者のペーテル・ケイセル に南天の星図 を作成するための天体観測を依頼し、偏差 を補正できるように観測機器(おそらくアストロラーベ )を彼に与えた。ケイセルはジャワ島 のバンテン で客死するが、彼の観測結果は後にハウトマンによりもたらされた。この1595年から1597年にかけて行われた最初の東インド遠征は悲惨な状態で商業的にも失敗に終わった。249名の乗組員のうち生きて帰還したのは87名で、多くは疫病と地元住民との闘争によって命を失った。加えて、わずか数樽の胡椒 とナツメグ を購入できただけであった。しかしそれでも、商人たちは東アジア貿易の始まりであると捉え、これよりポルトガルによる香辛料貿易の独占は終わりを迎えることとなった。
プランシウスは、あまりに天文学や新世界 、東インドに時間を費やしていたため、説教に対して準備が足りないとして批判された。1599年には彼は船員に説教を始め、1602年にオランダ東インド会社 が設立された後はより神学に対して取り組むようになった。1603年以前に彼は予定説 に宗旨変えし、アルミニウス主義 とより激しく戦うようになった。1609年にはデュースブルク 生まれの人文主義司祭アドルフ・ベナトール (オランダ語版 ) に対するためアルクマール へ行った。1610年にはプランシウスは反レモンストラント派 (オランダ語版 ) のリーダーとなっており、ドルトレヒト会議 の開催を呼びかけた。1618年に開催された会議には彼の不寛容さが原因で招待されなかったが、聖書の改訂を認められた。
プランシウスはオランダ西インド会社 の設立にも関わり、ヘンリー・ハドソン やヤン・リヒトハルト (英語版 ) とも関係があった。
1622年5月15日に他界、25日に埋葬されたが、彼の希望をよそに教会での地位に相応しい形で埋葬されなかった。
天文学上の功績
1589年に南天の星座を含む天球儀 を製作した。この天球儀には2つの雲状のもののほか、Triangulus Antarcticus(南極三角形)という名前の星座や Crux という名で十字型の星座が描かれているが、これらは実際の大・小マゼラン雲 やみなみのさんかく座 、みなみじゅうじ座 とは描かれている位置が全く異なる。これは、1592年の地図に付された天球図においても同様である[1] 。こちらの天球図には、はと座 [2] やポロフィラックス も描かれている。
ケイセルは翌年ジャワで没するが、12の新しい星座[注 1] と135の恒星のデータがハウトマンからオランダ本土のプランシウスのもとにもたらされた。プランシウスは1598年に、これらの星々を加えた新しい天球儀を製作した[1] [注 2] 。また、ケイセルのもたらした情報にはみなみじゅうじ座の星々のデータが含まれていなかったため、プトレマイオス の『アルマゲスト 』のデータに依拠せざるを得なかった[3] 。そのため、これらの天球儀やバイエルの『ウラノメトリア』に描かれた南十字星の位置も実際とは異なっている[4] 。
プランシウスは、1613年にさらに新しい星座8個を加えた天球儀をアムステルダムで発表した。新しく加えられた星座はきりん座 、いっかくじゅう座 、子蟹座 、はち座 、チグリス座 、ヨルダン座 、おんどり座 、南の矢座 である[5] 。このうち、きりん座といっかくじゅう座を除く6つは現在使われていない。
小惑星 (10648)プランシウス は、彼にちなんで命名されたものである[6] 。
脚注
注釈
^ これら12の星座は1603年のヨハン・バイエル の星図『ウラノメトリア 』に取り入れられたことから、現在ではバイエル星座 とも呼ばれる。
^ プランシウスの監修のもとにアムステルダムの地図製作者ヨドクス・ホンディウス (英語版 ) がゴアの彫金を担当した。第二次世界大戦で消失したため現存していない。
出典
^ a b Ian Ridpath. “Star Tales - Triangulum Australe ”. 2015年5月4日 閲覧。
^ Ian Ridpath. “Star Tales - Columba ”. 2015年5月4日 閲覧。
^ Ian Ridpath. “Star Tales - Crux ”. 2015年5月4日 閲覧。
^ Warnar, Debolah J., (1979). Sky Explored: Celestial Cartography 1500-1800 . Theatrum Orbis Terrarum Ltd. and Alan R. Liss, Inc.. pp. 203-204
^ Ian Ridpath. “Star Tales - CHAPTER ONE continued... ”. 2016年4月11日 閲覧。
^ “(10648) Plancius = 1987 QX3 = 1987 SM20 = 4089 P-L = PLS4089 ”. MPC. 2021年8月28日 閲覧。