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プレイリースタイルの代表作ロビー邸
フランク・ロイド・ライト (Frank Lloyd Wright 、1867年 6月8日 - 1959年 4月9日 )は、アメリカ の建築家 。
アメリカ大陸 に多くの建築作品があり、日本 でもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ 、ミース・ファン・デル・ローエ と共に「近代建築 の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウス を加え四大巨匠とみなすこともある)。「カーポート 」の名付け親でもあり、1930年代 にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、初めてカーポートと呼んだ。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していたウォルター・バーリー・グリフィン であった[1] 。
生涯
ウィスコンシン州 に牧師の父ウィリアム・ライトと母アンナの間の第1子として生まれた。ウィスコンシン大学マディソン校 土木科を中途退学した後、シカゴ へ移り住んだ。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のジョセフ・ライマン・シルスビー の事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、ダンクマール・アドラー とルイス・サリヴァン が共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し[2] 、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。
アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなり、その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにあった。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。
独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル (草原様式、プレーリー様式、Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。プレーリースタイルは、シカゴ・コロンビア博覧会に日本から出展された宇治平等院鳳凰堂の模型をライトが見て、インスピレーションを得たといわれる[3] 。19世紀末のアメリカで爆発的人気を得た[3] 。
ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義 が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1936年のカウフマン邸(落水荘) までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係であった。
当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。
帝国ホテルライト館の正面
ライトデザインのピーコック・チェアが置かれたクラブハウス
1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセン[注釈 1] の設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが、日本からの帝国ホテル 新館設計の仕事であった。
1913年、東京 での帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の遠藤新 の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工した。
数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘) 、ジョンソンワックス社 と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともにカンチレバー (片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス 」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。
そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤ の装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズム の流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵 の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。浮世絵のディーラーとしても知られ、富豪のために日本で浮世絵を購入した上で売却している。
家族
妻として、キャサリン・トビン、ママー・ボソウィック(元チェニー夫人。内縁)、モード・ノエル(薬物中毒)、オルガ・イヴァノウァ・ヒンゼンブルグ(神秘主義者グルジェフ の弟子で彼らの提唱する神聖舞踏のダンサー)。キャサリンとの間に実子が6人。息子のフランク・ロイド・ライト・ジュニア(通称ロイド・ライト)、ジョン・ロイド・ライトはともに建築家。孫娘に、アカデミー賞女優のアン・バクスター がいる。
代表作
ジョンソンワックス社事務所棟
グッゲンハイム美術館
カウフマン邸(落水荘)
自邸と事務所
ラーキン・ビル
ユニティ教会
自由学園明日館
山邑邸
バーンズドール邸
ジョンソンワックス社研究所棟
ジェイコブス邸
ユニテリアン教会
タリアセン・ウエスト
ベス・ショーロム・シナゴーグ
マリン郡役所
世界遺産
2019年7月7日、アゼルバイジャン のバクー で開催されていた第43回世界遺産委員会 において、「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群 」として、ユニティー・テンプル、フレデリック・C・ロビー邸、タリアセン、バーンズドール邸(ホリーホック邸)、落水荘、ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸、タリアセン・ウエスト、グッゲンハイム美術館の8件が世界遺産に登録された[5] 。
ライトの事務所、タリアセン・フェローシップの建築家
注釈
^ この名はライトの血筋とタリエシン に由来している。彼の祖父リチャード・ロイド=ジョーンズはユニテリアン派 の伝道師 だった。ライトの自伝によれば祖父はドルイド の血筋を受け継いでおり祖父自身もドルイドの長であった。ここから着想を得たライトはウェールズ風の名前としてタリアセンを選んだ。ライトはタリアセンをドルイドであり、かつアーサー王 の円卓の騎士 であるとも見做していた。
参考文献
著書
『ライトの遺言』 谷川正己 ・睦子共訳、彰国社 、1961年。大型限定版も刊行
『ライトの住宅 自然・人間・建築』 遠藤楽訳、彰国社、1967年
『ライトの都市論』 谷川正己・睦子共訳、彰国社、1968年
『ライトの建築論』 エドガー・カウフマン編 谷川正己・睦子共訳、彰国社、1970年 - ※以上は多数重版
『建築について』 谷川正己・睦子共訳、鹿島出版会 〈SD選書 〉上・下、1980年
『ライト自伝 ある芸術の形成』 樋口清 訳、中央公論美術出版 、1988年
『ライト自伝 ある芸術の展開』 樋口清訳、中央公論美術出版、2000年 - 各大著
『建築家への手紙』 内井昭蔵 訳、丸善、1986年
『弟子達への手紙』 内井昭蔵・小林陽子訳、丸善 、1987年
『フランク・ロイド・ライト ドローイング集』 吉富久美子訳、同朋舎出版、1991年
『ライト=マンフォード 往復書簡集 1926-1959』 富岡義人編訳、鹿島出版会 2005年
『フランク・ロイド・ライトの現代建築講義』 山形浩生 訳、白水社 、2009年12月 - 小著
『有機的建築』 三輪直美訳、筑摩書房 、2009年12月
『フランク・ロイド・ライト 自然の家』 富岡義人訳、ちくま学芸文庫 、2010年1月
『テスタメント』 樋口清訳、中央公論美術出版、2010年10月 - 「遺言」の新訳・大著
伝記・研究・写真集
※代表的な一部を掲載。
天野太郎 ・樋口清 ・生田勉『フランク・ロイド・ライト』 彰国社、1954年
天野太郎 ・浦辺鎮太郎・二川幸夫『フランク・ロイド・ライト 現代建築家シリーズ1』 美術出版社、1967年
オルギヴァンナ・L・ライト『ライトの生涯』 遠藤楽訳、彰国社、1977年
谷川正己 『フランク・ロイド・ライト』 鹿島出版会 <SD選書 >、1967年
谷川正己 『ライトと日本』 鹿島出版会<SD選書>、1977年
谷川正己 『タリアセンへの道』 鹿島出版会<SD選書>、1978年
谷川正己 『フランク・ロイド・ライトとはだれか』 王国社、2001年
谷川正己 『フランク・ロイド・ライトの日本』 光文社新書 、2004年
エドガー・ターフェル『知られざるフランク・ロイド・ライト』 谷川正己・谷川睦子共訳、鹿島出版会、1992年
エドガー・ターフェル『フランク・ロイド・ライト 天才建築家の人と作品』 谷川睦子訳、啓学出版(現代建築集成・別巻3)、1985年
ブルース・ブルックス・ファイファ『巨匠フランク・ロイド・ライト』 デヴィッド・ラーキン編、鹿島出版会、1999年
ケヴィン・ニュート『フランク・ロイド・ライトと日本文化』 大木順子訳、鹿島出版会、1997年
William Allin Storrer『フランク・ロイド・ライト全作品』 岸田省吾 監訳、丸善 、2000年
Charles・Aguar他『フランク・ロイド・ライトのランドスケープデザイン』 大木順子訳、丸善、2004年
三沢浩『フランク・ロイド・ライト入門 その空間づくり四十八手』 王国社 、2008年
三沢浩『フランク・ロイド・ライトのモダニズム』 彰国社、2001年
岡野真『フランク・ロイド・ライトの建築遺産』 丸善、2005年
エイダ・ルイーズ・ハクスタブル 『未完の建築家フランク・ロイド・ライト』 三輪直美訳、TOTO出版、2007年
マーゴ・スタイプ 『フランク・ロイド・ライト・ポートフォリオ 素顔の肖像、作品の真実』 隈研吾 監修、酒井泰介訳、講談社トレジャーズ、2007年
『フランク・ロイド・ライト 建築ガイドブック』 水上優訳、丸善、2008年
大久保美春 『フランク・ロイド・ライト 建築は自然への捧げ物』 ミネルヴァ書房 <日本評伝選 >、2008年
谷川正己/宮本和義 写真『旧山邑邸・ヨドコウ迎賓館 建築家 フランク・ロイド・ライト』 バナナブックス、2008年
谷川正己/宮本和義 写真『自由学園明日館 建築家 フランク・ロイド・ライト』 バナナブックス、2009年、新版2016年
ブレンダン・ギル『ライト 仮面の生涯』 塚口眞佐子訳、学芸出版社、2009年
水上優『フランク・ロイド・ライトの建築思想』 中央公論美術出版、2013年
『フランク・ロイド・ライト最新建築ガイド』 斎藤栄一郎訳、エクスナレッジ 、2018年
『フランク・ロイド・ライトの仕事・傑作選』 徳間書店 「ATMムック」、2022年
『フランク・ロイド・ライト―世界を結ぶ建築』鹿島出版会、2023年。展覧会図録
関連項目
脚注
外部リンク
1881-1900 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-2010 2011-
1907年-1920年 1921年-1940年 1941年-1960年 1961年-1980年 1981年-2000年 2001年-