バンドはディクソンと関わりのあったワールド・パシフィック・レコードのスタジオでシングル曲のデモ音源を制作したが、発売は叶わなかった。(後の1969年に『プリフライト(Preflyte en』として発売)。続いてエレクトラ・レコードと契約し、「プリーズ・レット・ミー・ラブ・ユー」(Please Let Me Love You)と「ドント・ビー・ロング」(Don't Be Long)を発売するが、大きな売上には繋がらなかった。またブリティッシュ・インヴェイジョン全盛期の音楽業界に対応するため、"ザ・ビーフィターズ(The Beefeaters)"とイギリス風に改称し短期間活動したが、やはり商業的成功は果たせなかった。一方で、ディクソンはボブ・ディラン作「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)と題された未発表音源を入手し、ロック風のアレンジによるフォークロックの確立を進めた。ディクソンに招かれたスタジオで音源を試聴したディランは、「おい、踊れるじゃないか!」(Wow man! You can dance to that!)と驚いたとされる。
1966年初頭、ジーン・クラークが飛行機恐怖症を理由に脱退する。3月、当時のサイケデリック・ムーブメントを取り入れた先進的な楽曲「霧の8マイル」(Eight Miles High)を発表する。同曲は世界初のサイケデリック・ロックとする見方もある。ロジャー・マッギンの12弦ギターが奏でるうねるような不協和音的イントロは、ジョン・コルトレーンの影響を多分に感じさせる。また、ラヴィ・シャンカールなどのインド音楽からの影響もあったことであろう。複数のラジオ局が麻薬体験を連想させるとの理由で同曲を放送禁止にしたが、後のビートルズの『リボルバー』などの作風に大きな影響を与えている。7月に同曲を含むアルバム『霧の5次元』(The Fifth Dimention)を発売。メンバーは活動を通じてビートルズやローリング・ストーンズなどイギリスのロックバンドと親しく交流した。クロスビーはジョージ・ハリスンにインドの弦楽器シタールを紹介し、間接的にビートルズの音楽性に大きく影響した。
1967年2月、コンセプト・アルバムとして先駆的作品の一つとなるアルバム『昨日よりも若く』(Younger Than Yesterday)を発売する。「ロックン・ロール・スター」(So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star)ではヒュー・マセケラが参加。不協和音を用いた重厚感溢れる楽曲で評価が分かれたアルバム『霧の5次元』以降、マッギンの独裁に主にクロスビーが強く反発するようになり、メンバー間それぞれの不和軋轢が生じた。この頃から折からのヒッピー文化で浮かれる音楽ファンとロックバンドを担ぐ音楽業界を皮肉り、受け入れられない創作意欲への批判を嘆く厭世的な感傷(「昨日よりも若く」希望を、前進を。)を込めた社会風刺的な内容を発信するようになった。従来のサイケデリックな楽曲が流行したため、今度は実験的音楽や音響効果を最小限に留めたフォークロックに回帰したが、思索的な歌詞は支持されなかった。程なくビートルズのサイケデリック作品『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が大成功を収めたため、脚光を浴びる機会を逸した。デビューから3年間、チャート上位に様々な曲を送り続けたが、デビュー当時ほどの注目は得られなくなっていた。
1968年までに3名を失ったバーズは、ヒルマンの従兄弟ケヴィン・ケリーをドラマーとして、グラム・パーソンズをキーボーディストとして採用する。カントリー・ミュージックの要素を持ち込んだパーソンズと彼を支持したヒルマンにより、バーズはサイケデリアから一転、カントリー・ロックの原初的作風を持った。3月、「グランド・オール・オプリ」にロックバンドとして初出演を果たし、マール・ハガードのカバー曲を演奏したが、一部の保守的な観衆から強い批判を受けた。またパーソンズは予定に反して自作曲「ヒッコリー・ウィンド」(Hickory Wind)を演奏し、メンバーと司会を困惑させた。バンドはパーソンズの強い要望に応じてテネシー州ナッシュビルに数か月滞在し、アルバム『ロデオの恋人』(Sweetheart of the Rodeo)の大半を同地で録音した。作業は順調に進んだものの、パーソンズは報酬の増額やバンドの改名(Gram Parsons and The Byrds)、自身が選んだミュージシャンの採用などの要求を突きつけてマッギンを圧迫し、予測不能かつ自己中心的な行動でメンバーや関係者を大いに困惑させた。パーソンズはバンド内で権力を掌握したように見えたが、契約の都合でリード・ボーカルを担当できず、数々の問題行動で支持者のヒルマンを失望させた。
パーソンズの脱退後、ドラム演奏技術の問題により解雇されたケリーを継いだジーン・パーソンズ(グラムとの血縁関係はなし)とセッション・ギタリストであったクラレンス・ホワイトが採用される。9月、契約更改の際にコロムビアが支払った契約金の横領を試みた過去を持つマネージャーのラリー・スペクターの行動に激怒したヒルマンが脱退する。バンドにはスキップ・バッティンとジョン・ヨークが加入したが、創設時からのメンバーはマッギンのみになった。その後は公演活動に注力し、ホワイトのギターをはじめ、高い演奏能力でカントリー・ロックを演じるバンドとなる。1971年までに『バーズ博士とハイド氏』(Dr. Byrds & Mr. Hyde)、『イージー・ライダー』(Ballad of Easy Rider)、『(タイトルのないアルバム)』(Untitled)、『バードマニア』(Byrdmaniax)、『ファーザー・アロング』(Farther Along)などアルバム5作を発売するが、殆どの場合国内チャート下位に留まった。
解散と再編
1971年、アルバム『ファーザー・アロング』(Farther Along)の録音中、マッギンは秘密裏にクラーク、クロスビー、ヒルマン、クラークと会談し、バーズ再編について議論した。1972年、アサイラム・レコードが5人に十分な契約条件を提示したことで再編が決定し、新アルバムの制作が開始された。一方で、「バーズは5人しかいない(There are only ever five Byrds)」と述べるなど、初期の原型を留めていないバンドに批判的なクロスビーの提言を受け入れたマッギンは、1973年2月に活動休止中だった現行のバーズを解散し、新体制でアサイラム・レコードと契約を結ぶ。1973年に発売された『オリジナル・バーズ』(Byrds)はビルボード・トップLPチャートで20位に到達し、『ターン・ターン・ターン』以来の成功をバーズにもたらした。一方で本作からシングルカットされた作品はヒットしなかった。その後公演活動を短期間行い、同年中に解散した。解散前、5人は全員が揃わない限りバーズの名を使用して音楽活動をしないことで合意した。
1977年、マッギン、クラーク、ヒルマンが出演する21日間のヨーロッパツアーは、三者の関係悪化や関係者の契約不履行により途中終了した。しかし後に「マッギン・クラーク&ヒルマン」が結成され、アサイラムと契約した。1979年には日本公演を開催し、東京12チャンネルの「パイオニア・ステレオ音楽館」に出演した。シングル「ドント・ユー・ライト・ハー・オフ」(Don't You Write Her Off)がBillboard Hot 100で33位に到達するなど健闘し、評論家から高い評価を得ていたが、セカンドアルバムの録音中に精神と健康状態を悪化させたクラークが脱退する。バンドはマッギン&ヒルマンとして存続したが、十分な売上を立てられないまま両者の関係が決裂した1981年に解散した。