サー・ハロルド・マーティン・バロー (Sir Harold Martin Burrough , GCB KBE DSO 、1889年 7月4日 – 1977年 10月22日 ) は、イギリス の海軍 軍人。最終階級は大将 。
生涯
初期の経歴
バローは、1889年7月4日にイングランド ・ヘレフォードシャー イートン・ビショップ (英語版 ) の牧師 チャールズ・バローと妻ジョージナ・ロングの10男として生まれた。バローはオックスフォード のセント・エドワーズ・スクール (英語版 ) で教育を受けた後、1903年に海軍士官候補生としてのキャリアを始めた[ 1] 。
第一次世界大戦 中、軽巡洋艦 「サウサンプトン 」の砲術士官として初の実戦を経験し、1916年のユトランド沖海戦 にも参加した[ 1] 。1918年、オーストラリア海軍 巡洋戦艦 「オーストラリア 」砲術士官[ 2] 。
1930年、バローは重巡洋艦 「ロンドン 」艦長を拝命[ 1] 。1935年には駆逐艦 「エクスマス 」艦長兼第5駆逐艦戦隊 (英語版 ) 司令(Captain (D))に任命され、1937年にエクセレント海軍基地 (英語版 ) 司令官となった[ 1] 。1939年にバローは海軍参謀副長 (英語版 ) に任命された[ 1] 。
第二次世界大戦
第二次世界大戦 開戦後の1940年9月、バローは少将に昇進し、第10巡洋艦戦隊 (英語版 ) 司令官に任命された。1941年12月27日、バローはナチス・ドイツ占領下のノルウェー (英語版 ) のヴォクセイ島 (英語版 ) 及びモーレイ島 (英語版 ) を襲撃する特殊作戦 アーチェリー作戦 (英語版 ) の指揮を執り、彼の旗艦 軽巡洋艦「ケニア 」以下の艦隊とイギリス空軍 の攻撃によって敵船舶9隻を沈め、島の守備隊もブリティッシュ・コマンドス の襲撃で全滅させるという戦果を挙げた。これによりバローは殊功勲章 (DSO)を授与された。その後、バローは1942年までの2年間海軍参謀を務めた。同年7月、バローは包囲下にあったマルタ島 への増援輸送作戦 (英語版 ) ペデスタル作戦 の直接護衛部隊司令官に任命された。作戦では、バローの旗艦であった軽巡洋艦「ナイジェリア 」が雷撃を受け損傷したが生還した。その後、トーチ作戦 ではアルジェ への攻撃で連合国軍 海軍部隊の指揮を執るとともに、 北西アフリカ への上陸作戦を指揮した。
1945年5月7日、ランスの連合国遠征軍最高司令部 でドイツ降伏文書調印に立ち会うバロー(連合国側席、左から3人目)。
バローは1943年9月にジブラルタル及び地中海管区 (英語版 ) 司令官に就任した後、1945年1月に航空機事故 で殉職したバートラム・ラムゼー の後任として連合国海軍遠征軍司令官(ANXF)に就任した[ 1] [ 3] 。大戦末期、バローはアメリカ陸軍 のドワイト・D・アイゼンハワー 元帥 と緊密に協力しながら連合国海軍の戦略と作戦を計画し、1945年5月7日にはフランス のランス でドイツの降伏文書 (英語版 ) 調印に立ち会った一人となった。
バローは戦後もドイツ占領軍の海軍司令官として残留し、その職務の一環としてドイツ機雷掃海局 (英語版 ) の設立を承認した。このドイツ機雷掃海局はソ連 の圧力により1948年に解散したものの、後にドイツ連邦海軍 の源流の一つとなった。1946年にノア管区 司令官に就任。
バローは1949年に海軍を退役し、同年バス勲章 (GCB) のナイト・グランド・クロスを受勲した[ 1] [ 4] 。バローは1977年10月22日にサリー州 ハインドヘッド (英語版 ) のムーアハウス養護施設で肺炎 により死去した。
家族
バローは1914年にカナダ ・ノバスコシア州 ハリファックス のC・W・アウトヒットの娘ネリー・ウィルスと結婚し、2人の息子と3人の娘を儲けた。ネリーは1972年に死去した。
栄典
出典
参考文献
Parrish, Thomas; Marshall, S. L. A., eds (1978). The Simon and Schuster Encyclopedia of World War II . New York: Simon and Schuster. ISBN 978-0-671-24277-0
外部リンク