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ツール・ド・フランス または(ル・ )トゥール・ド・フランス (フランス語 : Le Tour de France 、以下「ツール」)は、毎年7月にフランス および周辺国を舞台にして行われる自転車ロードレース 。1903年 に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『レキップ 』や一般紙『ル・パリジャン 』などを抱えるフランスの大企業アモリ・スポル・オルガニザシオン (ASO, Amaury Sport Organisation)。
名称はフランス語で「フランス一周」を意味する[1] 。フランス語による同様の名称のレースには、スイス で行われるツール・ド・スイス などがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と呼ばれることもある。ジロ・デ・イタリア やスペイン で開催されるブエルタ・ア・エスパーニャ と並ぶ世界三大自転車レース[2] (グランツール )の一つであり、FIFAワールドカップ やオリンピック と並ぶ世界三大スポーツイベントの一つ[3] と称される。
「近代ツール」と区別される場合は1930年大会 以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。
概要
2007年のコース
毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで、距離にして3300km 前後[注 1] 、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だがイギリス 、イタリア 、スペイン、ベルギー 、モナコ など周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリア やブエルタ・ア・エスパーニャ に比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている[注 2] 。
スポンサーの名を冠した8人編成(最低6人。2017年大会までは9人編成)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍はヨーロッパ だけに限らず、アメリカ やオーストラリア 、カザフスタン 、コロンビア など多様である。
総合成績1位の選手には黄色のジャージ 「マイヨ・ジョーヌ 」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は2015年の場合で約203万ユーロ 、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている[4] 。
特徴
街を駆け抜ける集団
例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマン たちの逃げやスプリンター たちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズ 、ガリビエ 、モン・ヴァントゥ などの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけたオールラウンダー やクライマー たちの戦いが繰り広げられる。
2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈 とアルプス山脈 を使うことが多いため、「ピレネーラウンド」「アルプスラウンド」と呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。
かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。
他のグランツールではしばしば最終ステージが個人タイムトライアルとなることがあるが、ツール・ド・フランスにおいては稀である。最終日前日の第20ステージ(プロローグが設定される場合は第19ステージ)で総合優勝争いには決着がつき、最終ステージはパリ 市街を中心に回るクリテリウム 形式のコース設定がされ、シャンゼリゼ ゴールに設定されるのが恒例である。最終日は選手たちがシャンパン を片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターやステージ優勝を狙う選手以外は安全を優先して走る。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までとなる。もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあり、総合首位が逆転するケースがしばしば起こっている。1968年 、前ステージまで16秒差の総合3位につけていたヤン・ヤンセン がヘルマン・ファンスプリンヘル を、また1989年 、同じくローラン・フィニョン に50秒の差をつけられていたグレッグ・レモン が大逆転したケースがある。しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した[5] 。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2023年まで行われない。2024年大会で35年ぶりに実施される予定である。
歴史
黎明期
スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュ が自動車 による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)によるパリ・ブレスト・パリ (現在はアマチュアが参加するブルベ というイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙(Le Velo)がスポンサーとなるボルドー 〜パリ間レースに対抗するためのものであった。
1903年 に行われた第1回は、パリ郊外モンジュロン (Montgeron)のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前からヴィル=ダヴレー まで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。
第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は変速機 が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。
初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた(1936年 まで)。
以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦 によって1915年 から1918年 までは中断。1919年 から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代 まで続いた。
ナショナルチーム時代
1930年 からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。
1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルとなる。1937年 にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年 、山岳賞は1933年 (ただしジャージ制定は1975年 )、ポイント賞は1953年 に制定されている。
しかし第二次世界大戦 によって1940年 から1946年 まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアのファウスト・コッピ 、ジーノ・バルタリ がいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。1947年 から再開され、以後1950年代 にルイゾン・ボベ が3連覇を達成した。
トレードチームによる戦いへ
1960年代 に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスのナショナルチーム内においてジャック・アンクティル とレイモン・プリドール が対立し、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく1962年 からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後、1967年 と1968年 には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。
1960年代にはアンクティル、1970年代 前半にエディ・メルクス が4連覇を達成。1973年 には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された(同社は1993年 にASO傘下となる)。1975年 には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からはベルナール・イノー やローラン・フィニョン らフランス人が活躍。1980年代 後半は後半はヨーロッパ 出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモン が活躍した。
1990年代 前半にはミゲル・インドゥライン が史上初の5連覇を達成。2000年代 にはランス・アームストロング が7連覇を達成したが、2012年 にドーピング によるものであるとして剥奪された[6] 。
2010年以降はイギリス の天下が続いており、クリス・フルーム が3連覇を成し遂げている。
知名度と露出度
ツールの名物「悪魔おじさん 」ことディディ・ゼンフト
他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア (イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ (スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール (三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。
世界各地で開かれる他の自転車レースには興味がなくてもツール・ド・フランスだけは高い関心を持つファンも多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年時点、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。
そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシック などワンデイレースのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるともいわれ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過することも名誉なことであり、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロードレース選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。
運営
レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ(フランス国家憲兵隊 )とポリスナシオナル(フランス国家警察 )の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。
またレース中は情報や補給食 ・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供するニュートラルカー (ツールでは主にマヴィック が提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。
このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す山車 のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。2000年 と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。
キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年のケス・デパーニュ )など巧妙な宣伝を行っている。近年ではキャラバン隊は選手の通過後にも登場する(2008年以降のヴィッテル などが代表例)。
運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入で賄われるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。
各賞とリーダージャージについて
総合1位の選手が着用するマイヨ・ジョーヌ
数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケン がある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。2012年以降、リーダージャージはルコック による提供。なお表彰式で着用するリーダージャージは背中にファスナー のある表彰式専用のもので、翌ステージで着用するジャージは改めて対象選手(「繰り下げルール」適用の場合は繰り下げの着用対象選手)に渡される。
マイヨ・ジョーヌ(個人総合時間賞)
黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。
マイヨ・ヴェール(ポイント賞)
緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「ポイント賞 」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。
マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(山岳賞)
白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞 」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。1975年 に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。
マイヨ・ブラン(新人賞)
白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい[注 3] 。色の由来は不明。
ドサール・ルージュ(敢闘賞)
タイムトライアルと最終ステージを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし2004年 はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直前に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には逃げ屋 でおなじみとなっていたジャッキー・デュラン も含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。2009年 の最終ステージ(シャンゼリゼ通り)では、別府史之 が日本人初の敢闘賞を獲得した[注 4] 。2010年 以降、最終ステージについてはステージ敢闘賞の対象外となっている。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」(「総合敢闘賞」とも)が贈られる。
ドサール・ジョーヌ(チーム総合時間賞)
各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。2006年 からは黄色地に黒文字のゼッケン がチーム総合首位の選手全員に与えられている。チーム総合1位のチームに敢闘賞ゼッケン対象者がいる場合は、敢闘賞ゼッケンを優先する。
その他の賞
その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手にアンリ・デグランジュ記念賞 が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千ユーロ の賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおけるチマ・コッピ と同じもの。
各種規則
ゴール争い時の危険防止のため集団でゴールした場合、集団内(前車との差が1秒以内。2017年以降、平坦ステージに限り3秒以内)のすべての選手は集団先頭と同タイムとみなされる。同様の目的でゴール手前3km以内(2004年 までは1km以内)で落車 に巻き込まれたり、メカトラブルなどが発生し遅れた場合は、原則として元々その選手が加わっていた集団と同じタイムが与えられる[注 5] 。
各ステージには制限時間があり、基本的には「そのステージの優勝選手のタイムに対し何パーセントオーバー以内」という形で定められる(具体的な割合は優勝選手の平均速度やステージ形態などにより変化する)。基本的に制限時間以内にゴールできなかった選手はタイムオーバーによるリタイア扱いとなるが、タイムオーバーした選手が出走選手数の20%以上に及ぶ場合は主催者による救済措置が取られる場合がある(詳細はグルペット を参照)。タイムトライアルではステージ優勝者のタイムに対し、25%以上でタイムオーバーとなる。
不正行為には罰金やポイント没収、タイム加算などの各種ペナルティが課され、ゴール地点に設置されるプレスルームで配布されるコミュニケに記載され配布される。主な不正行為としては以下のものがある。
落車や修理で集団から遅れた際、集団に復帰するために規定以上にサポートカーを風除けに使う、サポートカーに掴まるなど。
ゴールスプリントの際の危険行為(蛇行、斜行による走路妨害、体当たりなど)
既定以外のユニフォーム着用
山岳コースでのギャラリーによる後押し
ゴールまで残り20kmを切ってからのサポートカーからの補給
スプリントポイントについては与えられるポイント数がステージの形状により変わる。ゴールでのスプリントポイントは平坦ステージの場合が最も高く以下、中位のステージ、山岳ステージ、タイムトライアルの順にポイントが少なくなる。また各ステージには中間スプリント地点が設定されているが、2010年までは「ステージ毎に概ね2ヶ所程度、3位までにポイント」というルールだったのに対し、2011年からは「各ステージ1ヶ所のみ、15位までにポイント」と大幅にルールが改められた。総合成績と異なり1cmでも先に通過した選手が高いポイントを得られるためポイント設定箇所、特にゴール前ではスプリンター同士の熾烈な争いが繰り広げられることとなる。また2015年は難易度1のステージのみポイントが改定され、スプリントステージ優勝者がより有利となるようになった。
スプリント・ポイント表 ~2010年
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
9 位
10 位
11 位
12 位
13 位
14 位
15 位
16 位
17 位
18 位
19 位
20 位
21 位
22 位
23 位
24 位
25 位
平坦ステージ
35
30
26
24
22
20
19
18
17
16
15
14
13
12
11
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
中位山岳
25
22
20
18
16
15
14
13
12
11
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
上級山岳
20
17
15
13
12
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
プロローグ&TT
15
12
10
8
6
5
4
3
2
1
中間スプリントポイント
6
4
2
スプリント・ポイント表 2011年~
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
9 位
10 位
11 位
12 位
13 位
14 位
15 位
難易度1ステージ(2015年)
50
30
20
18
16
14
12
10
8
7
6
5
4
3
2
難易度1ステージ(2011年~2014年)
45
35
30
26
22
20
18
16
14
12
10
8
6
4
2
難易度2ステージ
30
25
22
19
17
15
13
11
9
7
6
5
4
3
2
難易度3,4,5ステージ
20
17
15
13
11
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
中間スプリントポイント
20
17
15
13
11
10
9
8
7
6
5
4
3
2
1
山岳ポイントについては上り坂の勾配と長さに応じてカテゴリー超級 からカテゴリー4級までの5段階に区分されており、通過順にカテゴリーに応じた山岳ポイントが与えられる。カテゴリー超級の坂はいずれも過酷な登りでありツールマレー峠 、モン・ヴァントゥ 、ガリビエ峠 、ラルプ・デュエズ 等が有名である。近年はポイント稼ぎの目的でコース前半の山岳でアタックし、最後の上りとなる山頂ゴールでは大きく後退する作戦で山岳賞を狙うケースが目立ったことから2004年 からルールが改正され、最後の上り坂がカテゴリー2級以上の場合は与えられるポイントが2倍となった。このため最後まで上位集団に食らいついてゴールした方が総合優勝争いだけでなく山岳賞争いでも有利になったため、戦略にも大きな影響が出ている。
山岳ポイント表 ~2003年
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
9 位
10 位
11 位
12 位
13 位
14 位
15 位
カテゴリー超級
40
35
30
26
22
18
16
14
12
10
8
6
4
2
1
カテゴリー1級
30
26
22
18
14
12
10
8
6
4
2
1
カテゴリー2級
20
15
12
10
8
6
4
3
2
1
カテゴリー3級
10
7
5
3
1
カテゴリー4級
5
3
1
山岳ポイント表 2004年~2010年
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
9 位
10 位
カテゴリー超級
20
18
16
14
12
10
8
7
6
5
カテゴリー1級
15
13
11
9
8
7
6
5
カテゴリー2級
10
9
8
7
6
5
カテゴリー3級
4
3
2
1
カテゴリー4級
3
2
1
山岳ポイント表 2011年
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
カテゴリー超級
20
16
12
8
4
2
カテゴリー1級
10
8
6
4
2
1
カテゴリー2級
5
3
2
1
カテゴリー3級
2
1
カテゴリー4級
1
山岳ポイント表 2012年~2016年
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
9 位
10 位
カテゴリー超級
25
20
16
14
12
10
8
6
4
2
カテゴリー1級
10
8
6
4
2
1
カテゴリー2級
5
3
2
1
カテゴリー3級
2
1
カテゴリー4級
1
山岳ポイント表 2017年~
通過順位
1 位
2 位
3 位
4 位
5 位
6 位
7 位
8 位
カテゴリー超級
20
15
12
10
8
6
4
2
カテゴリー1級
10
8
6
4
2
1
カテゴリー2級
5
3
2
1
カテゴリー3級
2
1
カテゴリー4級
1
歴代総合優勝者
所属チーム名は当時。なお、主要部門賞受賞者については
回
開催期間
総合優勝者(所属チーム)
ステージ数
総距離
平均時速
1
1903年 7月1日 ~19日
モリス・ガラン (La Française)
6
2,428km
25.679km/h
2
1904年 7月2日 ~24日
アンリ・コルネ
6
2,429km
26.081km/h
3
1905年 7月9日 ~30日
ルイ・トゥルスリエ (Peugeot )
11
2,994km
27.107km/h
4
1906年 7月4日 ~29日
ルネ・ポティエ (Peugeot)
13
4,545km
24.463km/h
5
1907年 7月8日 ~8月4日
ルシアン・プティブルトン 1/2 (Peugeot)
14
4,488km
28.470km/h
6
1908年 7月13日 ~8月9日
ルシアン・プティブルトン 2/2 (Peugeot)
14
4,488km
28.740km/h
7
1909年 7月5日 ~8月1日
フランソワ・ファベール (Alcyon )
14
4,488km
28.658km/h
8
1910年 7月3日 ~31日
オクタブ・ラピーズ (Alcyon)
15
4,737km
28.680km/h
9
1911年 7月2日~30日
ギュスタヴ・ガリグー (Alcyon)
15
5,344km
27.322km/h
10
1912年 6月30日 ~7月28日
オディル・ドフレイエ (Alcyon)
15
5,319km
27.894km/h
11
1913年 6月29日 ~7月27日
フィリップ・ティス 1/3 (Peugeot)
15
5,388km
26.715km/h
12
1914年 6月28日 ~7月26日
フィリップ・ティス 2/3 (Peugeot)
15
5,405km
27.028km/h
13
1919年 6月29日~7月27日
フィルマン・ランボー 1/2 (La Sportive)
15
5,560km
24.054km/h
14
1920年 6月27日 ~7月25日
フィリップ・ティス 3/3 (La Sportive)
15
5,519km
24.132km/h
15
1921年 6月26日 ~7月24日
レオン・シウール (La Sportive)
15
5,484km
24.720km/h
16
1922年 6月25日 ~7月23日
フィルマン・ランボー 2/2 (Peugeot)
15
5,372km
24.202km/h
17
1923年 6月24日 ~7月22日
アンリ・ペリシエ (Automoto)
15
5,386km
24.428km/h
18
1924年 6月22日 ~7月20日
オッタビオ・ボテッキア 1/2 (Automoto)
15
5,425km
24.250km/h
19
1925年 6月21日 ~7月19日
オッタビオ・ボテッキア 2/2 (Automoto)
15
5,430km
24.820km/h
20
1926年 6月20日 ~7月18日
ルシアン・ビュイス (Automoto)
17
5,745km
24.063km/h
21
1927年 6月19日 ~7月17日
ニコラ・フランツ 1/2 (Alcyon)
24
5,321km
27.224km/h
22
1928年 6月17日 ~7月15日
ニコラ・フランツ 2/2 (Alcyon)
22
5,375km
27.876km/h
23
1929年 6月30日~7月28日
モリス・デワール (Alcyon)
22
5,276km
28.320km/h
24
1930年 7月2日~27日
アンドレ・ルデュック 1/2 (France)
21
4,818km
27.978km/h
25
1931年 6月30日~7月26日
アントナン・マーニュ 1/2 (France)
24
5,095km
28.758km/h
26
1932年 7月6日 ~31日
アンドレ・ルデュック 2/2 (France)
21
4,520km
29.313km/h
27
1933年 6月27日~7月23日
ジョルジュ・スペシェ (France)
23
4,396km
29.730km/h
28
1934年 7月3日~27日
アントナン・マーニュ 2/2 (France)
23
4,363km
31.233km/h
29
1935年 7月4日~28日
ロマン・マース (Belgique)
21
4,338km
30.650km/h
30
1936年 7月7日 ~8月2日
シルベール・マース 1/2 (Belgique)
21
4,414km
30.912km/h
31
1937年 6月30日~7月25日
ロジェ・ラペビー (France)
20
4,415km
31.768km/h
32
1938年 7月5日~31日
ジーノ・バルタリ 1/2 (Italie)
21
4,680km
31.565km/h
33
1939年 7月10日~30日
シルベール・マース 2/2 (Belgique)
18
4,225km
31.994km/h
34
1947年 6月25日~7月25日
ジャン・ロビック (Ouest)
21
4,642km
31.412km/h
35
1948年 6月30日~7月25日
ジーノ・バルタリ 2/2 (Italie)
21
4,922km
33.404km/h
36
1949年 6月30日~7月21日
ファウスト・コッピ 1/2 (Italie)
21
4,808km
32.119km/h
37
1950年 7月13日~8月7日
フェルディナント・キュプラー (Suisse)
22
4,775km
32.778km/h
38
1951年 7月4日~29日
ユーゴ・コブレ (Suisse)
24
4,697km
32.979km/h
39
1952年 6月25日~7月19日
ファウスト・コッピ 2/2 (Italie)
23
4,827km
31.871km/h
40
1953年 7月3日~26日
ルイゾン・ボベ 1/3 (France)
22
4,476km
34.593km/h
41
1954年 7月8日~8月1日
ルイゾン・ボベ 2/3 (France)
23
4,865km
34.639km/h
42
1955年 7月7日~30日
ルイゾン・ボベ 3/3 (France)
22
4,476km
34.639km/h
43
1956年 7月5日~28日
ロジェ・ワルコビャック (Nord-Est)
22
4,527km
36.268km/h
44
1957年 6月27日~7月20日
ジャック・アンクティル 1/5 (France)
23
4,664km
34.520km/h
45
1958年 6月26日~7月19日
シャルリー・ゴール (HOL-LUX)
24
4,319km
36.905km/h
46
1959年 6月26日~7月19日
フェデリコ・バーモンテス (Esp)
22
4,358km
35.474km/h
47
1960年 6月26日~7月17日
ガストネ・ネンチーニ (Italie)
21
4,173km
37.210km/h
48
1961年 6月25日~7月16日
ジャック・アンクティル 2/5 (France)
21
4,397km
36.033km/h
49
1962年 6月24日~7月15日
ジャック・アンクティル 3/5 (St-Raphaël)
22
4,274km
37.317km/h
50
1963年 6月23日 ~7月14日
ジャック・アンクティル 4/5 (St-Raphaël)
21
4,138km
36.456km/h
51
1964年 6月22日~7月14日
ジャック・アンクティル 5/5 (St-Raphaël)
22
4,505km
35.419km/h
52
1965年 7月8日~8月1日
フェリーチェ・ジモンディ (Salvarani)
22
4,188km
35.882km/h
53
1966年 6月21日~7月14日
ルシアン・エマール (Ford)
22
4,329km
36.819km/h
54
1967年 6月29日~7月13日
ロジェ・パンジョン (France)
22
4,779km
35.882 km/h
55
1968年 6月27日~7月21日
ヤン・ヤンセン (Hollande)
22
4,492km
34.894 km/h
56
1969年 6月28日~7月20日
エディ・メルクス 1/5 (Faema)
22
4,117km
35.296km/h
57
1970年 6月27日~7月19日
エディ・メルクス 2/5 (Faema)
22
4,492km
34.894km/h
58
1971年 6月26日~7月18日
エディ・メルクス 3/5 (Molten)
20
3,585km
37.290km/h
59
1972年 7月1日~23日
エディ・メルクス 4/5 (Molteni)
20
3,846km
35.514km/h
60
1973年 6月30日~7月22日
ルイス・オカーニャ (bic)
20
4,150km
33.407km/h
61
1974年 6月27日~7月21日
エディ・メルクス 5/5 (Molteni)
22
4,098km
35.661km/h
62
1975年 6月26日~7月20日
ベルナール・テヴネ 1/2 (Peugeot)
22
4,000km
34.906km/h
63
1976年 6月24日~7月18日
ルシアン・ファンインプ (Gitane)
22
4,098km
34.518km/h
64
1977年 6月30日~7月24日
ベルナール・テヴネ 2/2 (Peugeot)
22
4,096km
35.393km/h
65
1978年 6月29日~7月23日
ベルナール・イノー 1/5 (Renault-Gitane )
22
3,908km
36.084km/h
66
1979年 6月27日~7月22日
ベルナール・イノー 2/5 (Renault-Gitane)
24
3,765km
36.512km/h
67
1980年 6月26日~7月21日
ヨープ・ズートメルク (Raleigh)
22
3,842km
35.068km/h
68
1981年 6月25日~7月19日
ベルナール・イノー 3/5 (Renault-Gitane)
24
3,758km
37.844km/h
69
1982年 7月2日~25日
ベルナール・イノー 4/5 (Renault-Gitane)
21
3,507km
37.458km/h
70
1983年 7月1日~24日
ローラン・フィニョン 1/2 (Renault-Gitane)
22
3,860km
36.230km/h
71
1984年 6月29日~7月22日
ローラン・フィニョン 2/2 (Renault-Gitane)
23
4,021km
34.906km/h
72
1985年 6月28日~7月21日
ベルナール・イノー 5/5 (La Vie Claire )
22
4,109km
36.232km/h
73
1986年 7月4日~27日
グレッグ・レモン 1/3 (La Vie Claire)
23
4,084km
37.020km/h
74
1987年 7月1日~26日
ステファン・ロシュ (Carrera)
25
4,331km
36.644km/h
75
1988年 7月4日~24日
ペドロ・デルガド (レイノルズ・チーム )
22
3,286km
38.909km/h
76
1989年 7月1日~23日
グレッグ・レモン 2/3 (ADR)
21
3,285km
37.487km/h
77
1990年 6月30日~7月22日
グレッグ・レモン 3/3 (Z)
21
3,286km
38.621km/h
78
1991年 7月6日~28日
ミゲル・インドゥライン 1/5 (バネスト )
22
3,914km
38.747km/h
79
1992年 7月4日~26日
ミゲル・インドゥライン 2/5 (バネスト)
21
3,983km
39.504km/h
80
1993年 7月2日~25日
ミゲル・インドゥライン 3/5 (バネスト)
20
3,714km
38.709km/h
81
1994年 7月2日~24日
ミゲル・インドゥライン 4/5 (バネスト)
21
3,978km
38.381km/h
82
1995年 7月1日~23日
ミゲル・インドゥライン 5/5 (バネスト)
20
3,635km
39.191km/h
83
1996年 6月29日~7月21日
ビャルヌ・リース (ドイツテレコム )
21
3,765km
39.235km/h
84
1997年 7月5日~27日
ヤン・ウルリッヒ (ドイツテレコム)
21
3,950km
39.237km/h
85
1998年 7月11日 ~8月2日
マルコ・パンターニ (メルカトーレ・ウノ (英語版 ) )
21
3,875km
39.983km/h
86
1999年 7月3日~25日
優勝者無し[注 6]
20
3,687km
40.276km/h
87
2000年 7月1日~23日
優勝者無し[注 6]
21
3,662km
39.545km/h
88
2001年 7月7日~29日
優勝者無し[注 6]
20
3,453km
40.070km/h
89
2002年 7月6日~28日
優勝者無し[注 6]
20
3,276km
39.909km/h
90
2003年 7月5日~27日
優勝者無し[注 6]
20
3,426km
40.956km/h
91
2004年 7月3日~25日
優勝者無し[注 6]
20
3,391km
40.563km/h
92
2005年 7月2日~24日
優勝者無し[注 6]
21
3,608km
41.654km/h
93
2006年 7月1日~23日
オスカル・ペレイロ [注 7] (ケス・デパーニュ )
21
3,654km
40.784km/h
94
2007年 7月7日~29日
アルベルト・コンタドール 1/2 (ディスカバリーチャンネル )
20
3,554km
39.226km/h
95
2008年 7月5日~27日
カルロス・サストレ (CSC・サクソバンク )
21
3,523km
40.093km/h
96
2009年 7月4日~26日
アルベルト・コンタドール 2/2 (アスタナ・チーム )
21
3,459 km
40.31 km/h
97
2010年 7月3日~25日
アンディ・シュレク (チーム・サクソバンク )
20
3,642km
39.596km/h
98
2011年 7月2日~24日
カデル・エヴァンス (BMC・レーシングチーム )
21
3,471km
39.788 km/h
99
2012年 6月30日~7月22日
ブラッドリー・ウィギンス (スカイ・プロサイクリング )
20
3,480km
39.735 km/h
100
2013年 6月29日~7月21日
クリス・フルーム 1/4 (スカイ・プロサイクリング)
21
3,403.5km
40.545 km/h
101
2014年 7月5日~7月27日
ヴィンチェンツォ・ニバリ (アスタナ・チーム )
21
3,663.5km
40.7 km/h
102
2015年 7月4日~7月26日
クリス・フルーム 2/4 (チームスカイ )
21
3,360.3km
39.64 km/h
103
2016年 7月2日~7月24日
クリス・フルーム 3/4 (チームスカイ)
21
3,529km
39.62 km/h
104
2017年 7月1日~7月23日
クリス・フルーム 4/4 (チームスカイ)[7]
21
3,540km
41.00 km/h
105
2018年 7月7日~7月29日
ゲラント・トーマス (チームスカイ )
21
3,329km
40.21 km/h
106
2019年 7月6日~7月28日
エガン・ベルナル (チーム・イネオス )
21
3,366km
40.58 km/h
107
2020年 8月29日~9月20日
タデイ・ポガチャル 1/2 (UAE チーム・エミレーツ )
21
3,484.2km
39.89 km/h
108
2021年 6月26日~7月18日
タデイ・ポガチャル 2/2 (UAE チーム・エミレーツ )
21
3,414.4km
41.17 km/h
109
2022年 7月1日~7月24日
ヨナス・ヴィンゲゴー 1/2 (チーム・ユンボ・ヴィスマ )
21
3,328km
41.83 km/h
110
2023年 7月1日~7月23日
ヨナス・ヴィンゲゴー 2/2 (チーム・ユンボ・ヴィスマ )
21
3,405.1km
41.408km/h
国別優勝回数
2022年の109回大会まで、国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギー が18勝、スペインが12勝、イタリアが10勝、イギリスが6勝、ルクセンブルク が5勝、アメリカ合衆国 、デンマーク が3勝、スイス 、オランダ 、スロベニア がそれぞれ2勝、アイルランド 、ドイツ 、オーストラリア 、コロンビア が各1勝となっている[2] 。なおランス・アームストロング の優勝剥奪(後述 )があるため、大会の回数と勝利数の合計は一致しない[8] 。
5勝クラブ
ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている4人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年にランス・アームストロング は史上初の7回の総合優勝を達成したが、2012年にドーピングによるものとして7連覇の記録は剥奪されている[6] 。
ジャック・アンクティル ( フランス )
優勝年……1957年 、1961年 、1962年 、1963年 、1964年
タイムトライアルのスペシャリストである。1957年に初出場にもかかわらず、圧倒的な強さで初優勝を飾った。その後、肺炎 等のため勝利から見放されていたが1961年にカムバックを遂げ勝利を重ねた。1964年のレースでは消化不良に苦しんだが(休養日に振る舞われた羊肉 料理のためとされる)それを隠し通し、ライバルの追撃を振り切り5度目の栄冠を掴んでいる。
エディ・メルクス ( ベルギー )
優勝年……1969年 、1970年 、1971年 、1972年 、1974年
ツール・ド・フランス5勝に加えジロ・デ・イタリアでも5勝、世界選手権でも3回優勝している。クラシックレースでの強さも圧倒的で、勝利に対するあまりの貪欲さから「食人鬼」の異名をとった。トータル525勝、勝率28.12%は、史上最も偉大な選手としてふさわしい記録である。
初出場の1969年には総合優勝に加えてポイント賞 と山岳賞 も併せて受賞し主要3部門独占を果たしており、この記録を達成した選手は今もなおメルクスただ一人である。
ベルナール・イノー ( フランス )
優勝年……1978年 、1979年 、1981年 、1982年 、1985年
アンクティル、メルクスに続いて初出場で初優勝を飾った。「ブルターニュのアナグマ 」の異名で呼ばれた。
1985年のレースでは山岳ステージの落車で鼻を骨折し呼吸が困難になるアクシデントに見舞われチームメートだったグレッグ・レモン に優勝のチャンスが舞い込んだが、翌年はイノーがレモンのアシストに徹することを条件に優勝を譲らせたという逸話が残っている。しかし翌年、6勝目を挙げるべくレモンに立ちはだかったため2人の間に確執が生じることとなった(結局この年はレモンが総合優勝をしている)。かねて公言していた通り、1986年に32歳で引退した。
ミゲル・インドゥライン ( スペイン )
優勝年……1991年 、1992年 、1993年 、1994年 、1995年
ツール・ド・フランス史上初となる5年連続優勝を達成した。80kgを超す巨体ながら山岳ステージや個人タイムトライアルで絶対的な強さを発揮した。1992・1993年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で総合優勝する「ダブルツール」を2年連続で達成するという、空前絶後の偉業を成し遂げている。
圧倒的な強さに加え、どの選手からも尊敬され愛される穏やかな人柄から「ロワ・ソレイユ(太陽王)」とまで呼ばれた。また日本では「相手選手が引き離してもすぐ背後に貼りついている」様子から「ターミネーター 」と呼ばれていた。
区間優勝回数
なお、ランス・アームストロング は22勝で5位となるが、ドーピング により剥奪されている。
シャルル・ペリシエ (1930年)
エディ・メルクス (1970年、1974年)
フレディ・マルテンス (1976年)
以上8勝
ツールをめぐる問題
ツール・ド・フランスは、その初期から不正が横行していた。2回目の1904年の大会 の時点で、優勝者のモリス・ガラン を含む完走27選手中12選手が、列車の使用などの不正をして失格となり、アンリ・デグランジュ がレースを開催しないと宣言する事態となる。このデグランジュの決断は、後に撤回されたため、ツール・ド・フランスは継続されるようになったが、貧しい階級出身者が多かった当時の自転車競技者にとって、巨額な賞金は何としてでも手に入れたいものであり、その後も不正行為は後を絶たなかった。特定の場所を通過したかどうかのチェックを行うポイント制が導入されてから、列車などの乗り物を使った不正は減少したが、代わりに薬物によるドーピング が用いられるようになる。21世紀になっても、ドーピングの問題は根深かった[9] 。2013年大会以降は、現在まで重大なドーピング問題は報告されていない。
ドーピング問題
2006年のレースでのドーピング批判の横断幕
1955年
第11ステージ途中、モン・ヴァントゥ 付近で棄権したジャン・マレジャック が、後にアンフェタミンを常用していたことが判明[12] したが、ツール・ド・フランスで明らかになった最初のドーピング事例だった。
また、任意に選んだ選手中20%が覚醒剤陽性となり依存症となっていることが判明。
1979年
最終ステージ終了後、ヨープ・ズートメルクにドーピング違反が判明し、同ステージの区間記録が剝奪され、所定総合時間プラス10分のペナルティが科せられる。
1991年
PDM・コンコルド が第10ステージ後、突然の体調不良を訴え選手全員が棄権した。チームの声明が二転三転したこともあり薬物摂取による副作用ではないかとされている。
1998年
後にフェスティナ事件 と通称される大規模な組織的ドーピングスキャンダルが発覚した。
フェスティナ・ロータスの車から禁止薬物が発見され、第6ステージ終了後にフェスティナはツールから除名された。2000年までに出走した9名全員がEPOを使用していたことを認めた。
期間中にTVM・ファームフリッツの禁止薬物所持が新聞でスクープされた (後に事実であったと判明) ことで各チームが度々警察の捜索を受けることとなった。
第16ステージ終了後、カジノ・AG2R 所属で同ステージ終了時点の山岳賞だったロドルフォ・マッシ がパフォーマンス向上物質所持で逮捕された (のちに不起訴)。マッシは史上初のドーピング関連の罪で逮捕されたライダーとなった。
翌第17ステージでは度重なるジャンダルマリ の介入に抗議して、このステージを選手全員がボイコットした。
最終的には除外されたフェスティナやスペインから参加した全4チームを含め21チーム中計7チームがチームとして棄権した。この結果完走者は96人という1983年 以来の2桁を記録することとなった。
この年の出場選手のサンプルを後の技術で再検査した結果、総合上位1、2位 (マルコ・パンターニ とヤン・ウルリッヒ ) を含む18名からEPOが検出され、総合3位 (ボビー・ジュリック ) を含む12名が「疑わしい」と判定された[14] 。
1999年 〜2005年 、2009年 〜2010年
2012年 8月24日 、前日までにランス・アームストロング が、同年6月12日にアメリカ合衆国アンチドーピング機関(USADA)から送付されたドーピング違反にかかる告発状に対し、不服申し立てを行わなかったことを受け、USADAは、1998年 8月1日 以降の記録を全て抹消した上で、アームストロングに対し、「永久追放」宣告を行った[15] [16] 。
以下はアームストロングを「永久追放」宣告するに至った、USADAの見解である[15] 。
エリスロポエチン(EPO)、輸血 (時ドーピング)、テストステロン、副腎皮質ステロイド 、及びそれらマスキング剤の使用歴があると考えられること。
EPO、輸血関連機器(例:測定針、血液バッグ、貯蔵容器と他の輸血機器や血液パラメータなど)、テストステロン、コルチコステロイド およびマスキング剤などを所持している疑いがあること。
EPO、テストステロン、副腎皮質ホルモン 剤を他者へ「横流し」していた形跡があること。
EPO、テストステロン、コルチゾン を他者へ投与した形跡があること。
支援奨励、幇助、教唆、隠蔽など、複数のアンチ·ドーピング規則違反が見られること。
またUSADAは、1998年8月1日以降の成績抹消について、次の通り見解を示した[15] 。
元チームメイトなどの証言や観察等を通して、1998年以前から2005年までの期間中にEPO、輸血(時ドーピング)、テストステロン、コルチゾンなどの使用歴があると考えられること。
EPO、テストステロン、ヒト成長ホルモン については、1996年頃から使用していた可能性があること。
1999年から2005年までの期間に、EPO、輸血、テストステロン、コルチゾンなどの物質の提供(横流し)を行った上、それら物質の処方指導や投与をアームストロングが行っていたことを示す証拠を、元チームメイト等から提供を受けたこと。
2009年、アームストロングが4年ぶりにツール・ド・フランスに出場するまでの間、EPO、輸血時ドーピングが行われていたとする、科学的データが存在すること。
同年10月10日
同年10月22日、UCIはスポーツ仲裁裁判所 への上訴を行わず、USADAの裁定を受け入れることを表明し、1999年~2005年の7連覇の記録は剥奪されることが確定した[6] 。
2010年
大会終了後の9月29日、総合優勝者のアルベルト・コンタドール (チーム・アスタナ )の広報担当者が、7月21日に行われたドーピング検査結果、クレンブテロール の陽性反応が出たことを明らかにしたことが発端となり、その後約1年半にも及ぶ「白黒」の大論争が展開された。コンタドールは検出量がごく微量であったことを受け、食肉摂取時における食物汚染によるものだと主張したが、国際自転車競技連合 (UCI)と世界アンチ・ドーピング機構(WADA)はそのような事実はないと結論。2011年1月、なかなか処分決定を下そうとしなかったスペイン自転車競技連合は漸く、水面下でコンタドールに1年間の出場停止処分を提示したが、その1か月後、同連盟は不処分とすることを決めた。この裁定にUCIとWADAが異議を唱え、同年3月24日、UCIがスポーツ仲裁裁判所 (CAS)に提訴。そして2012年2月6日、CASはコンタドールに2年間の出場停止処分とする裁定を下し、漸く決着を見た。これを踏まえてUCIは、2010年のツール・ド・フランス以降に記録したコンタドールの成績を抹消する決定を下したため、2010年のツール・ド・フランス総合優勝者はアンディ・シュレク (チーム・サクソバンク )となった。
シャビエル・フロレンシオ (サーヴェロ・テストチーム )が、メディカルスタッフの事前許可なしに、覚醒剤のエフェドリン を含む薬物を使用していたとして、プロローグ開始直前にメンバーから除外。よって、同チームは最初から8人での戦いを余儀なくされた。
2011年
7月11日、第5ステージ終了後に採取されたアレクサンドル・コロブネフ (カチューシャ・チーム )の尿の中から、利尿薬 であるヒドロクロロチアジド の陽性反応が確認された。当初コロブネフは意図的に行ったものではないと主張。同月20日、Bサンプルでも陽性が確認されたが、2012年2月29日、スポーツ仲裁裁判所(CAS)は、競技力向上に起因するものではなく、医学的見地から使用されたとみなし、処分なしの裁定を下した。
UCIプロツアーを巡る確執
主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度UCIワールドカレンダー を2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。
その他
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリア を同一人物が同年に総合優勝することを指して「ダブルツール 」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会 個人ロードレースを同年に制すると「トリプルクラウン 」と呼び「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「チャンピオン 」の最上級)」として称えられる [要出典 ] 。
参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「ランタンルージュ (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて(尾灯 が赤であるべきことは世界共通。前照灯 参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。
日本人選手
近代ツール以前
川室競 第20回(1926年 )、第21回(1927年 )
大正15年と翌昭和2年の2大会に出場。いずれも第1ステージでリタイアに終わっている。
近代ツール以降
今中大介 第83回(1996年 )
日本人として近代ツール初出場。第14ステージでタイムオーバーによりリタイア扱い。
新城幸也 第96回(2009年 )、第97回(2010年 )、第99回(2012年 )、第100回(2013年 )、第101回(2014年 )、第103回(2016年 )、第104回(2017年 )
2009年は第2ステージ5位、129位完走。2010年は第11ステージ6位、112位完走。2012年は第4ステージ敢闘賞、84位完走[33] 。2013年は99位完走。2014年は65位完走[34] 。2016年は第6ステージ敢闘賞[35] 、116位完走[36] 。2017年は109位完走[7] 。
別府史之 第96回(2009年)
第3ステージ8位、第19ステージ7位、第21ステージ敢闘賞、112位完走。
日本でのテレビ放送
現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS 」で全ステージ生中継されている(J SPORTS cycle road race も参照)。
1985年 から1991年 にかけてはNHK が放映権を持ち、主にBS1 で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送をDVD 化したものがNHKエンタープライズ から発売されている[37] )。2007年 からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。2013年 から2015年 までは「まいにち ツール・ド・フランス」のタイトルでデイリーハイライト番組を、2016年 以降はウィークリーハイライトを放送。
1992年 にフジテレビ が放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語 」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。ダイジェスト番組のナレーションは窪田等 が担当。テーマ音楽はTHE SQUARE の「CHASER」、エンディングテーマはビル・コンティ による映画『ライトスタッフ 』のテーマ曲「The Right Stuff」。なお、2013年には第100回開催記念としてJ SPORTSが往事のコンセプトをそのまま再現した同タイトルの総集編を放送している。
1998年 には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也 などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年 にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。2009年 に契約を更新し2013年 までの延長が発表され、さらに契約延長により2017年 現在でも放送されている。2017年は全21ステージについて、スタートからフィニッシュまでの完全生中継が実現した[38] 。
なお、J SPORTSの生中継では、非常に長時間(2017年は最大で約8時間中継)に及ぶことから放送中に実況・解説者に補給食 (レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色があった。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影してメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっていた。また2000年 から2004年 まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られていた。Twitter が普及すると、ロードレース中継専用の実況ハッシュタグ 「#jspocycle」と質問用ハッシュタグ「#jspocycleq」を設定、後者に関しては随時視聴者からの質問を取り上げ解説者が回答している。
また、テレビでの本放送だけでなく、J SPORTSオンデマンドでも同時ライブ配信を実施、同時にフランス現地の放送も実況を差し替えずに配信するだけでなく、最大4画面のマルチアングル配信も行っている。またYouTube とニコニコ動画 ・ニコニコ生放送 でも第1日などの無料同時ライブ配信やレースハイライトの配信を行っている。
関連大会
2013年 1月、同年10月にも「ツール・ド・フランス」の名を冠した初の関連大会を日本の埼玉県 さいたま市 で開催を目指していることが報道され[39] 、3月25日にはさいたま新都心 周辺で開催することが発表された[40] 。2013年10月26日に「さいたまクリテリウムbyツールドフランス 」の名で開催され、沿道には20万人の観客が詰め掛けた[41] 。新型コロナ禍 により2020年 と2021年 は開催が見送られ[42] 、2022年から再開された。
関連書籍
デイヴィッド・ウォルシュ 『ツール・ド・フランス物語』未知谷 、1997年
ポール・キメイジ『ラフ・ライド アベレージレーサーのツール・ド・フランス』未知谷、1999年
ジャン=マリ・ルブラン『総合ディレクターツールを語る』未知谷、2000年
ジャック・オジャンドル 『MEMOIRE ツールの記録、追憶のツール』未知谷、2002年
安家達也『ツール100話 ツール・ド・フランス100年の歴史』未知谷、2003年
安家達也『ツール 伝説の峠』未知谷、2005年
ビル・ストリックランド『ツール・ド・ランス』アメリカン・ブック&シネマ 、2010年
セルジュ・ラジェ、ルーク・エドワード・エヴァンス『ツール・ド・フランスの百年史』スタジオタッククリエイティブ 、2010年
山口和幸『ツール・ド・フランス』講談社現代新書 、2013年
ジェレミー・ホイットル『バッド・ブラッド ツール・ド・フランスの秘められた生活』未知谷、2014年
ムスタファ・ケスス、クレマン・ラコンブ『ツール・ド・フランス100話』白水社 文庫クセジュ 、2014年
マックス・レオナルド『敗者たちのツール・ド・フランス ランタン・ルージュ』辰巳出版 、 2015年 ※内容は最下位選手の列伝
脚注
注釈
出典
^ 『クラウン仏和辞典』第4版(三省堂 、1995年)1531頁
^ a b [EURO EYE]別格ツールド・ド・フランス 最長の歴史■美しい歴史疾走 『読売新聞 』朝刊2023年5月24日スポーツ面
^ 『2019ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムを開催します 』(プレスリリース)さいたま市 、2019年4月15日。https://www.city.saitama.jp/006/014/008/003/008/001/p064756_d/fil/2019kaisaikettei.pdf 。2019年10月9日 閲覧 。 8ページ参照。
^ 2015年公式レギュレーション
^ 『サイクルスポーツ』1989年10月号
^ a b c “UCI confirms Lance Armstrong's life ban” . Cyclingnews.com. (2012年10月22日). http://www.cyclingnews.com/news/uci-confirms-lance-armstrongs-life-ban 2012年10月23日 閲覧。 (英語)
^ a b 「フルームが3年連続総合V ツール・ド・フランス 」日刊スポーツ(2017年7月24日)2023年5月27日閲覧
^ ヤエスメディアムック408『ツール・ド・フランスを知るための100の入り口』(J SPORTS企画、八重洲出版 、2013年6月)55頁 ISBN 978-4-86144-311-4
^ Spencer Platt (2013年1月22日). “ツール・ド・フランス、不正の歴史” . ナショナルジオグラフィック . http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7433/?ST=m_news 2016年6月15日 閲覧。
^ De Mondenard, Dr Jean-Pierre: Dopage, l'imposture des performances, Chiron, France, 2000
^ Archive extract from Quando Volava l'Airone, part of a programme called Format, Rai Tre television, 1998
^ "Le dopage est une pratique culturelle dans le cyclisme" (フランス語)
^ Jean-Pierre de Mondenard, "Dictionnaire du dopage" (2004), p.896
^ 「98年ツール総合1位パンターニやウルリッヒら18名の検体からEPO検出 」シクロワイアード 2013年7月25日付
^ a b c USADA bans Armstrong for life, disqualifies all results since 1998 - cyclingnews.com 8月24日付(英語)
^ 「ドーピング:米自転車のアームストロングが永久追放へ 」[リンク切れ ] 毎日新聞 (2012年08月25日)
^ U.S. Postal Service Pro Cycling Team Investigation - USADAのUSポスタルサービスチームにおけるドーピング事例に関する調査報告書(英語)
^ USADA: Lance Armstrong paid Ferrari more than $1 million - cyclingnews.com 10月10日付(英語)
^ Six former Armstrong USPS teammates receive bans from USADA - cyclingnews.com 10月10日付(英語)
^ ヒンカピーが過去のドーピングを告白 - シクロワイアード2012年10月11日付記事
^ USADA: Armstrong created a doping culture at US Postal - cyclingnews.com 10月11日付(英語)
^ 「禁止物質または禁止方法の使用の成否は,重要ではない。アンチドーピング規則違反は,禁止物質また は禁止方法を使用したこと,または使用の企てたことにより成立する。」(UCIアンチ・ドーピング規則より)
^ [http://www.cyclingnews.com/road/2008/tour08/news/?id=/news/2008/jul08/jul17news4a Tour de France News Flash, July 17, 2008/Ricc� fails doping test � Saunier Duval out of Tour Taken into police custody] サイクリングニュース(2008年7月17日付記事] (英語)
^ Tour rocked by new positive tests(BBCニュース2008年10月6日付) (英語)
^ Cyclisme - Dopage - Kohl a triché lui aussi(レキップ2008年10月13日付記事 Archived 2012年1月22日, at the Wayback Machine . (フランス語)
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^ Tour stage winner Astarloza suspended after failed doping test サイクリングニュース 2009年7月31日付記事(英語)
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^ Cofidis hotel raided, Di Grégorio arrested at Tour de France - cyclingnews.com7月11日付(英語)
^ ディグレゴリオがドーピング容疑で逮捕 コフィディスはレースを続行 - シクロワイアード7月11日付
^ Prosecutors want Di Gregorio charged with prohibited doping methods - cyclingnews.com7月12日付(英語)
^ “レディオシャックのシュレクから陽性反応、ツール・ド・フランス” . AFPBB News . (2012年7月17日). https://www.afpbb.com/articles/-/2890099?pid=9262240
^ 「新城84位で完走 注目度上げた/ツール 」日刊スポーツ (2012年7月23日)2023年5月27日閲覧
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^ ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX 【NHKエンタープライズ】 (インターネットアーカイブによるキャッシュ)
^ “ツール・ド・フランス2017 開幕まであと10日!~今年のツールを存分に楽しむ4つのご提案~ ”. J SPORTS (2017年6月21日). 2017年8月23日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年5月28日 閲覧。
^ “「ツール・ド・フランス」冠のレース 10月さいたま開催で調整” . スポーツニッポン . (2012年1月4日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/01/04/kiji/K20130104004910950.html
^ “本場ツール・ド・フランスが埼玉に!” . 日刊スポーツ . (2013年3月25日). https://www.nikkansports.com/sports/cycling/news/f-sp-tp6-20130325-1102836.html
^ “役者揃いのクリテリウムはフルームが勝利 ロードレースの魅力と迫力を20万人が堪能” . サンケイスポーツ . (2013年10月26日). http://cyclist.sanspo.com/103336
^ <新型コロナ>さいたまクリテリウム、2年連続で中止 さいたま市、感染状況を見ながら次回開催を判断 」埼玉新聞 ニュースサイト(2021年7月21日)2023年5月27日閲覧
関連項目
外部リンク