セルジューク帝国
آلِ سلجوق
(国旗)
セルジューク帝国の最大版図(1092年)
セルジューク朝 (ペルシア語 : سلجوقیان , 現代トルコ語 : Büyük Selçuklu Devleti ) は、11世紀 から12世紀 にかけて現在のイラン 、イラク 、トルクメニスタン を中心に存在したイスラム王朝 。大セルジューク朝 は1038年 から1157年 まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝 は1308年 まで続いた。
概要
テュルク系 遊牧民 オグズ の指導者セルジューク (英語版 ) および、彼を始祖とする一族(セルジューク家 )に率いられた遊牧集団(トゥルクマーン)により建国された。この遊牧集団を一般にセルジューク族というが、セルジューク族という語にあたる原語セルジューキヤーンは「セルジューク家に従う者たち」という程度の意味で、全てが血縁的結合をもった部族集団というわけではなく、セルジューク家の下に結集した様々な集団の集合体というべきものである。セルジューク族のトルコ国家という意味から、かつてはセルジューク・トルコ やセルジューク・トルコ帝国 、セルジューク朝トルコ帝国 という呼称がしばしば用いられたが、現在はセルジューク朝と呼ぶのが一般的である。セルジュークはテュルク語 による人名をアラビア文字 で記したもの( سلجوق Saljūq/Seljūq )をペルシア語風に発音した形で、元来のテュルク語ではセルチュク(Sälčük/Selčük)といった。
歴史
セルジューク朝の勃興
王朝の遠祖セルジューク は、オグズ族 のクヌク氏族(qiniq/qïnïq)に属するテュルク系遊牧集団(部族)の君長であった(セルジューク朝時代の資料では、むしろ『シャーナーメ 』などのイラン世界伝統の歴史観に基づいて、古代のトゥーラーン の王アフラースィヤーブ の後裔を名乗る場合が多く見られる)。10世紀 後半頃にセルジュークらの遊牧集団は、アラル海 の北方から中央アジア に入り、アラル海東方のジャンド (ジェンド)(現カザフスタン 領)に拠を構え、南のステップ地帯や丘陵部へ定着して遊牧 生活を送りながらイスラム教 に改宗した。このように遊牧生活を守りながらムスリムとなったテュルク系遊牧部族のことをペルシア語でトゥルクマーン という。
10世紀の末にセルジュークの子らはさらに南下してトゥーラーン (現ウズベキスタン ・タジキスタン )に入り、サーマーン朝 に仕えて勢力を蓄えた。セルジュークの子のひとり、イスラーイール は、11世紀 初頭に配下のトゥルクマーン4000家族とともにさらにアム川 を南渡してガズナ朝 のマフムード に仕えたが、その実力を恐れたマフムードによって幽閉されたほどであった。しかし、イスラーイールの没落によってトゥルクマーンの統制は失われ、アム川以南のホラーサーン 地方(現トルクメニスタン)には多くのトゥルクマーンが流入し略奪が行われるようになった。
一方、トゥーラーンに残ったイスラーイールの甥、トゥグリル・ベグ をリーダーとするセルジュークの子と孫たちは、サーマーン朝を滅ぼしてトゥーラーンを支配したカラハン朝 と対立して1035年 にアム川を渡り、1038年 にニーシャプール (現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。この事件がセルジューク朝の建国とされる。トゥグリル・ベグ兄弟はホラーサーンのトゥルクマーンを統御して軍事力を高め、1040年 にはガズナ朝のマスウード1世 (英語版 ) の軍をダンダーナカーンの戦い で破ってホラーサーンの支配を固めた。
トゥグリル・ベグは1042年 にはアム川下流のホラズム (現ウズベキスタン西部)を占領し、1050年 にはイラン高原 に転進してイスファハーン を取り、イランの大部分を手中に収めた。また、スルタン (スルターン)の称号をこの頃から称し始めた。
スンナ派 のムスリム (イスラム教徒)であるトゥグリル・ベグは、バグダード にいるアッバース朝 のカリフ に書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者としてシーア派 に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝 を討つ、という大義名分を獲得した。1055年 、バグダードのカリフから招きを受けたトゥグリル・ベグはバグダードに入城し、カリフから正式にスルタン の称号を授与された。同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝 のフトバ に詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界 において公式の称号として初めて認められた。
セルジューク帝国
1063年 にトゥグリル・ベグは亡くなり、甥のアルプ・アルスラーン がスルタン位を継承した。アルプ・アルスラーンは傅役(アタベク )のペルシア人 官僚ニザームルムルク を宰相(ワズィール )として重用し、彼のもとで有力な将軍に対するイクター (徴税権)の授与による軍事組織の整備や、マムルーク (奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却した君主権力の確立が目指された。
アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行って領土を広げ、1071年 にはマラズギルトの戦い (マンツィケルトの戦い)で東ローマ帝国 に勝利し、皇帝 ロマノス4世ディオゲネス を捕虜とした。この戦いによって東ローマ帝国のアナトリア 方面の防衛が手薄になり、セルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなど多くのテュルク系の人々がアナトリアに流入し、アナトリアのテュルク(トルコ)化が進んだ。
翌1072年 、アルプ・アルスラーンの子マリク・シャー が、イラン東部のケルマーン にセルジューク朝のアミール として地方政権を立てていた伯父、カーヴルト・ベグのスルタン位を狙った挑戦を破り、スルタン位を継承した。18歳のマリク・シャーは全権をほとんど宰相ニザームルムルクに委ね、君主の仕事は狩猟だけであるといわれたほどであった。大宰相ニザームルムルクの補佐を受けたマリク・シャーの時代に、セルジューク朝の支配は最大領域に広がった。西方ではセルジューク朝の権威はアナトリア、シリア 、ヒジャーズ に及び、東ではトランスオクシアナまで支配下に収め、セルジューク朝は中央アジアから地中海 に及ぶ大帝国へと発展した。しかし、この時期にトゥルクマーンの一集団がファーティマ朝から聖地エルサレム を占領したことが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、また東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノス がアナトリアの領土奪回のためローマ教皇 に対して援軍を要請したため、1096年 の第1回十字軍 が編成されることになる。
版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。
セルジューク朝の地方政権の中では、トゥグリル・ベグが子を残さずに没したときアルプ・アルスラーンと戦って敗北したクタルムシュの子、スライマーン がアナトリアのトゥルクマーン統御のためマリク・シャーによって送り込まれ、1077年 にニカイア を首都として建国したルーム・セルジューク朝 (1077年 - 1308年)が有名である。同じくマリク・シャー期にはマリク・シャーの弟トゥトゥシュによりダマスクス にシリア・セルジューク朝 (1085年 - 1117年)が立てられ、ルーム・セルジューク朝と抗争した。ケルマーンには、先に触れたカーヴルト・ベグの敗死後も、その子孫がケルマーン・セルジューク朝 (1041年 - 1184年)として存続する。
トゥグリル・ベクによって建国されイラク・イランを中心に支配したセルジューク朝の大スルタン政権は、これらのセルジューク朝地方政権と区別するために、大セルジューク朝 とも呼ばれる。
大セルジューク朝の混乱と終焉
1092年の王朝版図
1092年 、宰相ニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン (ペルシア語版 ) に暗殺され、さらに同年翌月マリク・シャー が38歳で死ぬと、カラハン朝 の王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳のマフムード を支援する勢力と、12歳の長男バルキヤールク (ベルクヤルク)を支援する故ニザームルムルクの遺臣勢力の間で後継者争いの内紛が起こり、大セルジューク朝に2人のスルタンが並存した。1094年 にマフムードが夭折するとバルキヤールクは単独のスルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャーの弟たちとの間でも後継者の座を巡って争いが続き、1099年 に十字軍 がシリアに到来してエルサレムを奪ったとき も十分な対応をとることができない状態であった。
さらに、バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパル らがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争いを起こすと、大セルジューク朝の支配領域はバルキヤールクとムハンマドの間で分割されることになった。この内紛は、バルキヤールクが1104年 、その子マリク・シャー2世 が1105年 に若くして没したために、ムハンマド・タパルのスルタン位継承をもって終結するが、もはやスルタンの権威は大きく失墜していた。
1119年 に至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーンに派遣され、イラン西部から中央アジアにかけて勢力を確立していたムハンマド・タパルの同母弟サンジャル が、前年に亡くなったムハンマド・タパルの子マフムードを破り、甥にかわって兄ムハンマド・タパルの後継者としての地位を確立した。これをきっかけにサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たち、イラク・セルジューク朝 (1118年 - 1194年)に対しても大スルタンとして宗主権を行使するようになり、1123年 には断絶したシリアのセルジューク朝の支配地域を取り戻して、大セルジューク朝を復興させた。
サンジャルはガズナ朝 の都ガズナ を征服し、ガズナ朝を支配下に置いた。1121年 には現在のアフガニスタン に勃興したゴール朝 を服属させ、1130年 にはカラハン朝を宗主権下に置き、支配下にありながらサンジャルに反抗したホラズム・シャー朝 のアトスズ を攻撃して屈服させた。こうしてサンジャルは大セルジューク朝の権威を東方へと拡大することに成功したが、1141年 に東方から襲来してカラハン朝を侵食した耶律大石 率いるキタイ人 の西遼 軍を撃退しようと出撃してカトワーンの戦い で敗れた。
この敗戦やキタイ人に追われて中央アジアから新たにホラーサーンに逃れてきたトゥルクマーンの増加はサンジャルの地盤であったホラーサーンを脅かすようになった。1153年 、トゥルクマーンの反乱を鎮圧しようとしたサンジャルは逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した。1157年 のサンジャルの病没によってセルジューク朝の全体に権威を及ぼす大スルタンは消滅し、大セルジューク朝は事実上滅亡した。
イラクとケルマーンにおけるセルジューク朝の滅亡
サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。
一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー )とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、アタベク たちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。1194年 、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュ はイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・トゥグリル3世 を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に1186年 にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。
ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、1243年 にモンゴル の支配下に置かれた。ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、1308年 に最後のスルタンが没して消滅した。
文化
アフガニスタン・ヘラート出土の1180–1210年頃の真鍮製品 (大英博物館所蔵)
イラン出土の12–13世紀の石像 (ニューヨークメトロポリタン美術館所蔵)
セルジューク朝は出自においてはテュルク系ではあるが、行政ではニザームルムルクを始めとするペルシア系の官僚が活躍し、宮廷の公用語はペルシア語 であった。宮廷にはペルシア語で詩作する文人が数多く集まり、サロンが形成された。セルジューク朝期の有名な詩人としては、数学者・天文学者としてマリク・シャーに仕えていたウマル・ハイヤーム (オマル・ハイヤームとも)がよく知られている。著作は、四行詩集『ルバイヤート 』がとくに名高い。
セルジューク朝末期にアゼルバイジャンで生まれたニザーミー はペルシア文学 において物語文学の完成者と言われ、叙事詩体によって『ホスローとシーリーン 』、『ライラとマジュヌーン 』などすぐれた長編作品を残した。
学問の分野では、ファーティマ朝によるシーア派 (イスマーイール派 )の盛んな布教に対して危機感をおぼえたスンナ派 において、イスラム法学 や神学 などのイスラムの諸学問を教える専門の学校、マドラサ がつくられるようになり、宰相ニザームルムルクによってバグダード などの主要都市に、宰相の名を冠したニザーミーヤ学院が建設された。この時代にマドラサで教鞭を取った学者の中にイスラムを代表する思想家のひとり、ガザーリー がいる。
セルジューク朝の君主一覧
大セルジューク朝 (1038年 - 1157年)
ホラーサーン (1097年 - 1157年)
イラク・西イラン (イラク・セルジューク朝 、1118年 - 1194年)
マフムード2世 (1118年 - 1131年)
ダーウード(1131年 - 1132年)
トゥグリル2世 (1132年 - 1134年)
マスウード (1134年 - 1152年)
マリク・シャー3世(1152年 - 1153年)
ムハンマド2世(1153年-1160年)
スライマーン・シャー(1160年 - 1161年)
アルスラーン・シャー (1161年 - 1176年)
トゥグリル3世 (1176年 - 1194年)
シリア (シリア・セルジューク朝 、1085年 - 1117年)
トゥトゥシュ (1085年 - 1095年)
1095年分割
ダマスカス
アレッポ
リドワーン (1095年 - 1113年)
アルプ・アルスラーン(1113年 - 1114年)
スルターン・シャー(1114年 - 1117年)
ケルマーン (ケルマーン・セルジューク朝 、1041年 - 1187年)
カーヴルト・ベグ (1041年 - 1073年)
ケルマーン・シャー(1073年 - 1074年)
スルターン・シャー(1074年 - 1075年)
フサイン・ウマル(1075年 - 1084年)
トゥーラーン・シャー1世(1084年 - 1096年)
イーラーン・シャー(1096年 - 1101年)
アルスラーン・シャー1世(1101年 - 1142年)
ムハンマド1世(1142年 - 1156年)
トゥグリル・シャー(1156年 - 1169年)
バフラーム・シャー(1169年 - 1174年)
アルスラーン・シャー2世(1174年 - 1176年)
トゥーラーン・シャー2世(1176年 - 1183年)
ムハンマド2世(1183年 - 1187年)
アナトリア (ルーム・セルジューク朝 、1077年 - 1308年)
スライマーン・イブン=クタルミシュ (1077年 - 1086年)
クルチ・アルスラーン1世 (1092年 - 1107年)
マリク・シャー・イブン=クルチ・アルスラーン(1107年 - 1116年)
マスウード1世 (1116年 - 1156年)
クルチ・アルスラーン2世 (1156年 - 1192年)
カイホスロー1世 (1192年 - 1196年)
スライマーン2世(1196年 - 1204年)
クルチ・アルスラーン3世(1204年 - 1205年)
カイホスロー1世(2回目、1205年 - 1210年)
カイカーウス1世 (1210年 - 1220年)
カイクバード1世 (1220年 - 1237年)
カイホスロー2世 (1237年 - 1246年)
カイカーウス2世(1246年 - 1257年)
クルチ・アルスラーン4世(1248年 - 1265年)
カイクバード2世(1249年 - 1257年)
カイホスロー2世(2回目、1257年 - 1259年)
カイホスロー3世(1265年 - 1284年)
マスウード2世(1284年 - 1285年)
カイクバード3世(1285年)
マスウード2世(2回目、1285年 - 1292年)
カイクバード3世(2回目、1292年 - 1293年)
マスウード2世(3回目、1293年 - 1300年)
カイクバード3世(3回目、1300年 - 1302年)
マスウード2世(4回目、1302年 - 1304年)
カイクバード3世(4回目、1304年 - 1308年)
マスウード3世(1308年)
系図
脚注
^ Rein Taagepera (September 1997). "Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia". International Studies Quarterly. 41 (3): 496. doi:10.1111/0020-8833.00053. Retrieved 13 September 2016
関連項目