ここは元はスペイン時代に「Plaza Mayor」(メインの広場、Alonso Hernández del Portillo の著書『Historia de la Muy Noble y Más Leal Ciudad de Gibraltar』(実に高貴で最も忠誠なジブラルタルの町の歴史)より)[1]あるいは「Gran Plaza」(大広場)[3]と呼ばれ、後に「Alameda」(アラメダ、スペイン語でポプラの並木道を指し、アラメダ庭園と混同してはならない)とも呼ばれており、現在のメイン・ストリートにあたる Calle Real の西から広がっていた。ここは2つの建物でリン・ウォール(スペイン時代の主要な防潮堤で、ランドポートからサウス・モールの最下部まで続いている)と隔てられた。すなわち広場の西にある大きな長方形の建物と、その南にあるより小さく背の低い La Santa Misericordia(聖慈悲)病院・教会である[3]。
イギリス統治になって最初の一世紀の間、この広場は守備隊の観兵式で使われた。そのため「パレード」[1]「グランド・パレード」[3][4]と呼ばれた。ジブラルタル占領後の1704年、イギリス人らは La Santa Misericordia 病院・教会を債務者監獄に転用した。調査によれば1753年の時点でも広場の西側に刑務所が確認できる[3]。ジブラルタル包囲戦の後、柱廊のついたジョージアン様式(英語版)の衛兵所(英語版)が広場の南側に建てられた[1]。これは「メイン・ガード」と呼ばれ、ジブラルタルの全ての哨兵は毎晩ここから配置につけられた[5]。何年か後にはこの建物に消防団が入った[1]。1938年にこの消防団がヴィクトリア砲台の新しい消防署に移った後、ここは税務署 (Rates Office) になった[1]。現在、この衛兵所にはジブラルタル遺産トラストが入っている[1]。
広場の様相は、1810年代に2つの重要な建物が建てられ、大きく変わった。1817年に地元の商人らは公に募金を集めて、交易図書館 (Exchange and Commercial Library) を収容するための建物を建てた。守備隊専用のガリスン図書館の会員になることを断られたジブラルタルの商人たちは、1807年に Bedlam Court に図書館を設立していた[6]。(ガリスン図書館は、図書館としてだけでなくクラブ活動にも使われていたが、軍士官らが所有・運営・使用したものであり、市民らは地位が向上したとはいえ使用できなかった。)そして10年後の1817年、商人らは自らの手で広場の東側とメイン・ストリートに挟まれる位置に新しい建物を建てた。ここには図書館だけでなく、競売所も設けられ、地元の商人たちが集う場となった[6]。1951年に建物は改装されて立法議会 (Legislative Council) が入り、1969年に「House of Assembly」になった[6]。2006年以降、この建物にはジブラルタル議会が入っている。
同じ頃の1819年に[7]、ユダヤ系ポルトガル人の豪商アーロン・カドウズー(英語版)がジブラルタルにそれまで無かった規模の豪邸を広場の対面に建てた[2]。3階建ての建物は広場を圧倒するものだった。ここは元は La Santa Misericordia(聖慈悲)病院・教会であり、さらに刑務所となった場所であった[7]。カドウズーはプロテスタントではなかったため、法律上はジブラルタルに地所を持つことはできなかった。しかし彼はホレーショ・ネルソンの親友であり、彼の艦隊を援助していたので、広場に「彩りを添える」という条件の下、最終的にアラメダに家を建てることを許された[2]。建築費は約4万ポンドだった[8]。1934年に彼が没すると、彼の邸宅はホテルとして賃貸され[7]、「クラブ・ハウス・ホテル」になった。1874年に建物は Pablo Antonio Larios に買われた。彼は裕福な事業家かつ銀行家であり、ジブラルタルに生まれたがスペイン人の一族であり、この建物を完全に改装した[7]。彼の息子 Pablo Larios(マルサレス侯爵)は1922年に建物をジブラルタル植民地当局へ売却した。当局はここを郵便局にする予定だったが、最終的には新しく設立されたジブラルタル・シティ・ホールの不動産となり、現在は市長(英語版)の応接室が置かれている[9]。建物は後に何度か改装(フロアの追加および北側への拡張)がなされ、元の左右対称な姿ではなくなっている。
19世紀半ばに広場の名称は「コマーシャル・スクエア」に変更され[7]、ここで蚤の市や定期的な競りが開かれた。それゆえスペイン語で「Plazuela del Martillo」、くだけて「El Martillo」という名が作り出された[7]。(martillo はスペイン語で、卓上を叩く小槌を意味する。)当時よく使われた別名として「Jews Market」(ユダヤ市)というものがある[3]。これらの通称はやがて使われなくなり、この広場は専らピアツァ (The Piazza) と呼ばれるようになった[7]。このイタリア語は、広場の中心が舗装されたのちに付けられたもので、ジェノヴァからの移民が持ち込んだものかもしれない。「ジョン・マッキントッシュ・スクエア」という名が公式に付けられたのは1940年である。
泉
1571年に、町の南側にあるレッド・サンズより飲料水を引くため用水路が作られた。広場の北西隅にある泉は、この用水路から引かれたものである[1]。(今のシティ・ホールの北にあるこの泉の階段は、現在「Fountain Ramp」(泉の傾斜)、スペイン語で「Callejón de la Fuente」と呼ばれる[1]。)何年か後に泉が枯れて用水路は使われなくなったが、1694年に源泉は再生された。用水路は1887年にカッスル・ストリートに移され、1960年代までそこにあった[7]。そして最終的には、元の位置から20メートルほど北西にあたる Zoca Flank まで、リン・ウォールの上に通された[10]。(ライオンの頭を象った排水口が4つ、噴水の下部に刻まれているが、これは戦争、疫病、死、平和を意味している[10]。)