ジョン・クレイグ・バラ (John Craig Ballagh、1842年 9月25日 - 1920年 11月15日 )は、アメリカ合衆国長老教会 の教育宣教師 である。ジェームス・ハミルトン・バラ は実兄(次男)。
生涯
初期
1842年、ジョン・クレイグ・バラはアメリカ合衆国 ニューヨーク州 デラウェア郡 ダベンポート で小作農に従事していたジョン・ハミルトン・バラとアン・P・クレイグ・バラの間の5男5女の四男として生まれる。[ 注釈 1]
ジェームスの誕生直後、一家はニューヨークに引っ越し、また、ロング・アイランド のヘンプステッド (Hempstead)、次に、ニュージャージー州 テナフライ に移住する。
地元のテナフライ学校で初等教育を終了し、チェリー・アカデミーに進学し、数学 、天文学 、土木 、商業簿記 などを学んだ。1846年に母校のテナフライの教師になる。後に、ミズーリ州 のウエスト・ポート・アカデミー で準学長を務めた。また、教会もウェスト・ポート長老教会(West Port Presbyterian Church)に転籍する。[ 1]
アメリカ・オランダ改革教会宣教師で兄のジェームス・ハミルトン・バラ
アメリカ・オランダ改革教会から派遣され、日本いた兄のジェームス・ハミルトン・バラが1872年 (明治5年)に日本基督公会 を設立して、仮牧師 として牧会 に専念することになった。それまで、ジェームス・ハミルトンは、弟のジェームス・クレイグに、ジェームスが教鞭を取っていた洋学校の藍謝堂 (高島学校)の、教師の代役を依頼する。[ 2]
日本での活動
これを受けて、バラは1872年 (明治5年)6月に来日し、高島嘉右衛門 と契約を結び、藍謝堂の教師になる。途中、県立修文館 と合併し、横浜市学校になる。火災で新校舎が焼失して野毛山に移転し、市中共修文館に改称する。1875年 (明治8年)に契約満期終了により、修文館を退職する。
1875年8月16日に米国長老教会、ヘンリー・ルーミス の司式で、リディア・ベントンと結婚式を挙げて、横浜山手9番に新居を構える。そして、夫人とともに米国長老教会 在日ミッションへ加入を表明し、8月30日に承認された。それ以降ヘボン塾 の男子クラスを受け持つことになった。[ 3]
1876年 (明治9年)1月にJ・C・ヘボン 夫妻は塾をバラに任せることになり、それ以降バラ塾と呼ばれることになった[ 4] 。バラの教え子は熊野雄七 、石本三十郎 、服部綾雄 、松村介石 などがいる。
1877年 (明治10年)米国長老教会ミッションはアメリカ・オランダ改革派教会 とスコットランド一致長老教会 と共同で、日本基督一致教会を創立する。日本人教職の養成のために東京一致神学校 を設立した。この神学校 に人材を送り込む教育機関として、1880年 (明治13年)に築地大学校 が設立された。バラが教頭になり、専任教師にウィリアム・インブリー 、O・M・グリーン らが就任した。[ 5]
1881年 (明治14年)からは築地大学校の校長になった。1882年 (明治15年)に一時帰国する。帰国間際に妻のリディアが肺炎 で死去する。[ 6]
再来日・再婚
1880年代半ばのアメリカ合衆国長老教会東京ミッションのメンバーの家族の集合写真,最後列左から三人目が妹のアニー・バラ、前から2列目の左から三人目が後妻レベッカ、バラはその右隣
1884年 (明治17年)9月7日の再来日の際には妹のアニー・バラ が一緒に宣教師として来日した。1885年 (明治18年)バラはレベッカ・フォールズと再婚した。[ 7]
1886年 (明治19年)に東京一致神学校 、東京一致英和学校 、英和予備校 が合併して、明治学院 が設立された。それから、バラは普通学部の教授として天文学 、簿記学 を教えた。また、40年に亘り在日長老ミッションの会計を務め、健全なミッション運営に貢献した。
日本での晩年
1920年 (大正9年)11月15日に鎌倉 で死去する。亡骸は瑞聖寺 の明治学院墓地にレベッカ夫人と共に埋葬されている。[ 8]
脚注
注釈
^ バラ一家は、合同改革長老教会(Associate Reformed Presbyterian)に所属していたので、バラ家はスコットランド系アイルランド人 がルーツであると言われる。(中島 2003 , pp. 120)
出典
参考文献