オーモンド (Ormonde) は、イギリスの競走馬・種牡馬である。19世紀末に史上4頭目のイギリスクラシック三冠を達成し、16戦不敗の成績を残した名馬である。不遇の晩年を送り、種牡馬としても成功することはできなかった。代表産駒はオーム。
生涯
3代母ミスアグネスが産んだ2代母ポリーアグネスを生産者のサイク氏は気に入らず、牧夫に向かって
「こんな神経質で小柄なヤツはどうせ使い物にならないから、生かそうと殺そうと構わない。さっさと牧場から追い出してしまえ」
と命じた。牧夫は殺すのを惜しみ、息子の所に預ける事とした。
ポリーアグネスは2シーズン出走して3勝した後に、マカロニを配合して産まれたのが母リリーアグネスである。
リリーアグネスは、肉付きが悪く、後軀がみすぼらしかったものの、2-5歳時にイギリスで走り32戦してドンカスターカップなど長距離レースを含めて合計21勝した。
繁殖入り後、ドンカスターを付けるため、ウエストミンスター公爵の牧場にリリーアグネスを連れて行った所、リッチモンドという牧夫が惚れ込んで公爵に買うよう頼み、公爵は言葉を聞き入れたが、譲渡条件は現金2500ポンドと公爵所有馬のベンドアの種付け2頭分だった。
それが功を奏し、オーモンドのほかに1000ギニーに勝ったフェアウェルや、プリンスオブウェールズステークスのオソリー、1戦未勝利馬ながらセプターの母となったオナーメントがいる。
父ベンドアは初代ウェストミンスター公のもとエプソムダービーに勝った馬で、オーモンドはこの2頭の間に、母から見れば第3仔として生まれた。生まれた頃は馬格が小さく、膝が曲がっていた。その後も成長が遅れぎみであったが、2歳の春にかけて成長目覚しく、10月にニューマーケットでデビューするころにはすばらしい馬体に成長していた。また、父譲りで気性も穏やかで、花が好きだった。
初戦は1馬身差で勝ちデビュー戦を飾る。2戦目のクリテリオンステークスも楽勝。さらに2日後に行われたデューハーストステークスも獲得し2歳戦を終えた。
3歳時
翌シーズンの初戦は2000ギニーとなった。11対10という圧倒的一番人気に押されたミンティングが逃げたが、オーモンドはこれを並ぶまもなくかわすと2馬身差で1冠を獲得した。エプソムダービーはザバーブが相手となったが1馬身半差で完勝した。ダービー後はセントジェームズパレスステークス、ハードウィックステークスに勝った。
秋はセントレジャーステークスから始動。セントミリンに4馬身の差をつけ勝利し史上4頭目のイギリスクラシック三冠を達成した。さらに2ヶ月の間にチャンピオンステークスを含む5戦全て勝利し、デビュー以来の連勝を13に伸ばしたところで休養に入った。
4歳時
このころオーモンドには異変が起きていた。既にセントレジャーの前には母のリリーアグネスが患っていた喘鳴症の兆候が現れていた。もっともこの時点では動きそのものに大きな問題は無く、ポーターは現役を続行させることを決めた。ロイヤルアスコットのルースメモリアルステークスに出走させ、25ポンドも斤量の軽いキルウォーリンに6馬身の差をつけて優勝した。この時ゴールしてから半時間も拍手が止まらなかったと伝えられている。
しかし喘鳴症は確実に悪化していた。ハードウィックステークスはミンティングとの再戦になりオーモンド生涯唯一の苦戦を経験する。2000ギニーでは破ったものの元々ミンティングはかなり強い馬で、オーモンドを避けて出走したパリ大賞を5馬身差で圧勝する実力の持ち主だった。レースはかなり激しいものになり、何とか首差で勝ったものの既に限界に達していた。インペリアルゴールドカップという短距離戦を引退レースとして16戦のうち一度も負けることなく引退した。
引退後
引退後のオーモンドは歴史的名馬にもかかわらず不遇の余生を送った。馬主の初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーはオーモンドに大きな愛着を持っていたものの、イギリスに喘鳴症を持ったオーモンドの遺伝子が広まることを危惧し、数年間供用した後アルゼンチンに12000ポンドで輸出した。アルゼンチンでは成功することができず、続いてアメリカ合衆国へ31250ポンドで転売された。アメリカではオーモンデイルを出したが病気のため産駒数が少なく(10年以上供用されたが産駒数は16頭)、1904年、ついに呼吸困難に陥り殺処分された。遺体は一度埋葬されたがその後掘り出され、骨格がロンドンの自然史博物館に展示されている。生涯を通じて産駒数が少なかったため、その血を現在に伝えているのは、イギリスに残した少数の産駒のうちの1頭、オームの子孫に限られている。
成績
年別競走成績
主な産駒
血統表
脚注
参考文献
- 原田俊治『世界の名馬』サラブレッド血統センター、1970年。 [信頼性要検証]
外部リンク