また九七式戦闘機以降の一連の中島飛行機製単座戦闘機と同様に、主翼前縁後退角を0とする手法は本機以降ハインケル社でも常套化し、He 280, He 219, He 162 らに受け継がれている。内翼の上反角も0で、軽い逆ガル翼を構成している。
1938年6月5日、ドイツ空軍内では異例にハインケル社に好意的だったエルンスト・ウーデット大佐自ら操縦桿を執り、通常型1,175hpエンジンの試作3号機 (V3)[注釈 3] で100km周回区間の世界速度記録634.32km/hを出すや、航空省はこれを He 100 ではなく He 112U (U はウーデットの頭文字)の成果として発表した。更に水・メタノール噴射装置付高過給仕様の改造 DB 601 (短時間出力1,750hp)に換装し、翼弦を短縮した増加試作8号機 (V8) は、ハインケル社テストパイロットのハンス・ディターレの操縦で1939年3月10日に高度50m以下1km区間746.606km/hの公認記録を樹立したが、空軍省はこれも実戦配備中の He 112U によるものとして対外宣伝した。
運用
不採用、宣伝機へ
期待通りの高性能を発揮した He 100 の制式採用をハインケル社は確信したが、戦闘機をメッサーシュミット社の専任とする事が空軍省の当時の方針とされていた。また、He 100自体の機体設計も、被弾率の高い主翼を表面冷却器に当てたことが脆弱性を高めることは自明であり、高い失速速度と高翼面荷重、発動機架まで廃止してエンジンをバルクヘッドに直付けするなど「凝り過ぎ」と評された生産性・整備性上の問題点も多く、実用性に対する懸念は当初から強く持たれており、前線で活躍中の Bf 109 の大量産を減じてまで He 100 を並行配備すべきとの積極的な支持が得られず(搭載するDB 601エンジンの生産数が限られていたため、He 100を生産すれば、同エンジンを搭載するBf 109/Bf 110の生産減となる)[注釈 4]、それまでの努力は水泡に帰した。
更に、航空省と宣伝省はメッサーシュミット社に速度記録用の Me 209 (Bf 109R) を特製させて He 100 の記録を塗り替え、これを大々的に対外宣伝したのみならず、記録更新を目指したハインケル社に禁止命令を下した。このMe 209は実用戦闘機化が計画され、製作された4号機にあたるMe 209V4はDB 601Aエンジンを搭載し、トラブルの多い表面冷却をやめ、主翼下面に通常型のラジエーターを備え1939年に初飛行した。しかしHe 100とは異なり、元が速度一辺倒で設計された機体だけに実用機として使用するには問題が多く、肝心の速度性能も機体の改修や武装によって機体重量が増加したためBf 109Eを下回るまでになった。そのため今後改善の見込みがないとされ、開発計画は中止となった。結果としてHe 100はHe 177の開発経緯と同様に様々な説が語られている。
He 100D(He 113)への発展
ハインケル社では A, B, C 各型に続き、自費で増加試作型の He 100D-0 を3機、量産準備型の He 100D-1 を12機製作した。これはレーサー的性格が強かった初期型から、戦闘機としての実用化に転じたもので、尾翼面積を拡大して方向安定性を増し、一部は自社の He 111 など爆撃機に用いられていたユンカース ユモ 211へ換装し、表面冷却器からコンベンショナルな胴体下半埋め込み式の集中冷却器に変更するなど、度重なる改修を施したものの、原設計が DB 601を前提に特化されていた結果、突出した高速性が失われた事もあり、不採用の決定は遂に覆らなかった。
しかし He 100D-1 は He 113 の仮名で種々に迷彩され、あたかも実戦配備されているように対外宣伝されたため、連合国側でも He 113 との交戦記録を申請するパイロットが続出した。実際、He 100D-1 の内3機はハインケル社の工場防空に当っていたが、会敵機会はなかった。
不採用が確定した後、ハインケル社はジェット戦闘機 He 280 計画に注力することになり、余剰化した He 100 はソ連と日本に放出された。