1994年の全日本F3選手権(1994ねんのぜんにほんF3せんしゅけん)は、1994年(平成6年)3月19日 - 20日に鈴鹿サーキットで開幕し、同年10月1日 - 2日に鈴鹿サーキットで閉幕した全10戦による1994年シーズンの全日本F3選手権である。
シリーズチャンピオンはミハエル・クルム(ドイツ)が獲得した。
この3年で圧倒的な速さを示したトムス製シャシーのユーザーと、前年4勝と全日本F3においても好結果を挙げユーザーを大幅に増やしたダラーラ・F393およびF394ユーザーとの対決構図となった[1]。一方でダラーラにシェアを奪われたレイナードは片手に収まるほどの少数派となり、1992年まで上位で長く活躍していたラルト製シャシーのユーザーもごく僅かとなり姿を消しつつあった。
トムスは前年秋の富士インターナショナルF3リーグで来日したドイツF3ランキング4位のミハエル・クルムと契約。前年圧勝を見せ全日本F3000へとステップアップして行ったトム・クリステンセンの後任として「トムス・トヨタ」のエースとなり、チームのF3タイトル連覇を目指すこととなったクルムは、開幕から2戦は慎重な走りだったものの、第3戦筑波からはサーキット舗装の日本特有の特徴を掴み完勝を続けるようになる。その速さは童夢F3000チーム監督の松本恵二をして「あれだけ強いと、F3000でどんな走りをするかウチで一度乗せてみたくなった」と評価する強さで[2]、全10戦中6勝を挙げ1994年シリーズチャンピオンを獲得した[3]。クルムはこの松本の言葉通り童夢より全日本F3000スポット参戦を果たした。ランキング2位にもトムスに乗る影山正美が入り、ランキング3位はダラーラ勢最上位となる中野信治が食い込んだ。また、高木虎之介が未勝利ではあったが表彰台に3度上がるなどその速さはアピールされたシーズンであった[1]。
最終戦終了後、最も活躍したルーキーに与えられる新人賞には開幕戦でデビューウィンを飾った道上龍が選ばれ、ベストメカニック賞はトムスが受賞した。また、F3でのエンジンオイル開発に協力してきた近畿油化(現・ザーレンコーポレーション)に日本F3協会より感謝状が送られた[4]。
この年のF3での活躍により、前述のクルムの他にも影山正美、中野信治、高木虎之介はシーズン終盤に全日本F3000へのスポット参戦の機会が与えられ、全日本F3を卒業していった。
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