1974年の読売ジャイアンツでは、1974年の読売ジャイアンツにおける動向をまとめる。
この年の読売ジャイアンツは、川上哲治監督の14年目のシーズンであり、中日にV10を阻止されたシーズンである。中日がリーグ優勝を決めた日に、長嶋茂雄が引退を表明した[2]。
概要
前人未到の10連覇を目指した巨人だが序盤はなかなか貯金を作れず、中日と阪神の首位争いに加われず、6月までは辛うじて5割を上回る状況が続いた。7月に入っても調子が上がらず、4連敗で貯金ゼロになった翌日の7月9日には川上監督が生涯唯一の退場処分になるなど苦戦が続いた。投手陣では前年23勝の左のエース高橋一三が前半戦最終戦の7月17日にやっと初勝利を挙げる大不振、一方打撃陣では長嶋茂雄が前年終盤に右手を負傷した影響からか打率.230前後の状態が続き、6月下旬からはクリーンアップから外れて1番を打つことが多くなった。8月になって10連勝でようやく首位に立つが、同じ頃中日も6連勝で巨人をぴったりマーク。9月上旬に4連敗を喫して7連勝の中日に首位の座を明け渡した巨人は、さらに中旬にも4連敗を喫し、中日との差が開いていった。10月になって6連勝で必死に追いすがった巨人だが、中日も5連勝で差が縮まらず、全球団に勝ち越したもののついに10月12日に中日の優勝が決定。投手陣は高橋の不振を堀内恒夫、関本四十四、小林繁がカバーし、ローテの谷間を新浦壽夫・玉井信博が埋め、救援陣では小川邦和・倉田誠が控えるなどチーム防御率が3.05で、優勝の中日を上回った。打撃陣でも長嶋の不振を4番の王貞治が埋め、代打では柳田俊郎、萩原康弘の2枚看板に加えて淡口憲治が台頭した。優勝決定から1時間半後に長嶋は引退を表明、11月21日には川上の監督勇退と長嶋の監督就任が発表され、波乱の第1次長嶋政権時代が幕を開けた。
チーム成績
レギュラーシーズン
1974年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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中日 |
--
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巨人 |
--
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阪神 |
--
|
阪神 |
--
|
巨人 |
--
|
中日 |
--
|
中日 |
--
|
2位
|
阪神 |
3.0
|
阪神 |
0.5
|
中日 |
3.5
|
巨人 |
2.0
|
中日 |
2.0
|
巨人 |
3.0
|
巨人 |
0.0
|
3位
|
巨人 |
4.0
|
中日 |
2.0
|
巨人 |
4.5
|
中日 |
2.0
|
阪神 |
4.0
|
阪神 |
10.5
|
ヤクルト |
12.0
|
4位
|
大洋 |
5.0
|
広島 |
5.0
|
大洋 |
6.5
|
大洋 |
6.5
|
ヤクルト |
10.5
|
ヤクルト |
13.0
|
阪神 |
14.0
|
5位
|
広島 |
6.0
|
大洋 |
6.5
|
広島 |
7.5
|
広島 |
9.5
|
大洋 |
13.5
|
大洋 |
14.0
|
大洋 |
17.5
|
6位
|
ヤクルト |
6.0
|
ヤクルト |
7.0
|
ヤクルト |
11.0
|
ヤクルト |
9.5
|
広島 |
15.0
|
広島 |
16.5
|
広島 |
19.5
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[1]
オールスターゲーム1974
できごと
選手・スタッフ
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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[16]
表彰選手
ドラフト
出典
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
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1990年代 | |
---|
2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |