1967年の南海ホークスでは、1967年の南海ホークスの動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の22年目のシーズンである。
概要
球団初の4連覇(それまでは3連覇が2回)がかかったこの年、チームはアメリカからのちにID野球の元になった「考える野球」の提唱者であるドン・ブレイザーが入団。ブレイザーは守備だけでなく打撃でもいい成績を残して鶴岡監督の期待に応え、エースの皆川睦雄やリリーフの杉浦忠など投手陣が「ブレイザーが守っていると安心して投げられる」と絶賛するほどであった。4連覇のかかったシーズンは開幕ダッシュが期待されたものの、5月には首位の阪急と6ゲーム差の最下位に転落。それでも6月以降は持ち直して一度は2位に浮上するものの、9月以降は負けが込み西鉄に抜かれると最後は浮上せず近畿日本鉄道が親会社となった1944年以来23年ぶり、そして戦後初のBクラスで終了し4連覇はならなかった。投手陣は皆川、渡辺泰輔、合田栄蔵が規定投球回に到達してそれなりの成績を残したが、チーム防御率は3.04のリーグ4位。打撃陣は野村克也の奮闘があったが、チーム打率と得点が5位に終わった。シーズン終了後、3連覇に貢献したケント・ハドリがこの年限りで退団した。
チーム成績
レギュラーシーズン
1967年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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阪急 |
--
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阪急 |
--
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阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
西鉄
|
西鉄 |
1.5
|
東映 |
5.5
|
東映 |
6.5
|
東映 |
11.0
|
東映 |
9.5
|
西鉄 |
9.0
|
3位
|
東映 |
3.0
|
東映 |
3.0
|
西鉄 |
8.0
|
南海 |
9.0
|
南海
|
西鉄 |
11.0
|
東映 |
10.0
|
4位
|
南海 |
3.5
|
近鉄 |
5.0
|
南海 |
9.0
|
西鉄 |
9.0
|
東京 |
12.0
|
南海 |
12.0
|
南海 |
11.0
|
5位
|
近鉄 |
3.5
|
東京 |
5.5
|
東京 |
10.5
|
東京 |
9.5
|
西鉄 |
12.5
|
東京 |
15.0
|
東京 |
14,0
|
6位
|
東京 |
5.0
|
南海 |
6.0
|
近鉄 |
12.0
|
近鉄 |
14.0
|
近鉄 |
19.5
|
近鉄 |
18.5
|
近鉄 |
16.0
|
オールスターゲーム1967
できごと
選手・スタッフ
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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[2]
表彰選手
リーグ・リーダー
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選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
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野村克也
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本塁打王 |
35本 |
7年連続8度目
|
打点王 |
100打点 |
6年連続6度目
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ドラフト
脚注
注釈
出典
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |