1952年ベルギーグランプリ (XIV GROTE PRIJS VAN BELGIE) は、1952年6月22日にスパ・フランコルシャンで開催されたフォーミュラ2のレース。このレースは1952年のF1世界選手権の第3戦でもあったが、通常適用されるフォーミュラ1のレギュレーションではなく、1952年と1953年はフォーミュラ2のレギュレーションが適用された。
レース概要
マセラティの新型車、A6GCMは準備ができていなかった。これに加え、第一ドライバーのファン・マヌエル・ファンジオがノンタイトル戦のモンツァグランプリで背中に怪我を負っていた。これはフェラーリが再びレースで成功を収められる事を意味した。フェラーリのラインナップはアルベルト・アスカリ(アンドレ・シモンに代わって)、ニーノ・ファリーナ、ピエロ・タルッフィの3名であった。また、2人のプライベイター、エキュリー・フランコルシャンのシャルル・ド・トルナコ と、ルイ・ロジェもフェラーリをドライブした。ゴルディーニもラインナップを補強し、ベルギー人ドライバーのジョニー・クレエ、そしてジャン・ベーラ、ロベール・マンヅォン、プリンス・ビラが参戦した。アメリカ人ドライバーのロバート・オブライエンもシムカ・ゴルディーニで参戦している。HWMはベルギー人ドライバーのペア、ポール・フレールとロジェ・ローランを採用し、レギュラードライバーのピーター・コリンズ、ランス・マックリンと共に4台体制で参戦した。スターリング・モスはHWMからERAにスイッチして参戦。その他に多くのプライベイターが参加し、その中には後のワールドチャンピオン、マイク・ホーソーンがクーパー-ブリストルでデビューしている。
フェラーリがフロントローを占め、アスカリがポールポジション、ファリーナとタルッフィがこれに続いた。ゴルディーニのマンヅォンとベーラが2列目、3列目はホーソーン、ケン・ウォートン(フレイザー・ナッシュ)、フレールが並んだ。フレールは5名のベルギー人ドライバーの中で最上位であった。
雨の中スタートしたレースでタルッフィは大きく順位を落とし、第1ラップの終わりには9位に沈んだ。一方ベーラは2台のフェラーリを追い抜き、レースをリードした。モスもスタートに成功したが、第1ラップの途中で車が故障し1周もせずにリタイアとなった。ベーラのリードは短命に終わり、2ラップ目にはアスカリとファリーナに追い抜かれる。この両者は残る周回、1-2を保持したままレースを終えた。13ラップ目にタルッフィがベーラを抜き、ベーラは4位となった。次のラップでタルッフィはマルメディでスピン、ベーラがこれに衝突し両者ともリタイアした。マンヅォンはホーソーンを抜いて3位となり、ホーソーンは燃料漏れの問題を抱えながらも4位でレースを終えた。ポール・フレールが5位に入ってポイントを獲得した[1]。
アスカリの勝利(ファステストラップも)と、タルッフィのリタイアにより、両者はタイトル争いにおいて9ポイントで並ぶこととなった。インディ500勝者のトロイ・ラットマンが3位、ファリーナは2位に入賞したことでランキング4位に浮上、ポイントリーダーから3ポイント差の位置に付けた。
エントリーリスト
結果
予選
決勝
注
第3戦終了時点でのランキング
- 注:トップ5のみ表示。ベスト4戦のみがカウントされる。
参照