1952年の松竹ロビンスでは、1952年シーズンの松竹ロビンスの動向をまとめる。
この年の松竹ロビンスは、新田恭一監督の2年目のシーズンであり、このシーズン終了後、大洋ホエールズと合併したため、松竹ロビンスとしての最後のシーズンである。
概要
シーズン開幕前、リーグは代表者会議で勝率3割を切ったチームには処罰を与えることを決定した。これは、1950年オフに西日本が西鉄と合併して以来、セントラル・リーグ所属チームが奇数となり、日程が組みにくかったことから、チームを減らすべきであるという論調が強く、弱いチームを排除することにより、チーム数を偶数に戻すことを念頭に置いた決定であったと考えられている[2]。シーズンが開幕すると、松竹は勝率3割前後の成績ではあったが、広島が5月終了時点で勝率3割を大きく割り込み、広島が処罰によって消滅することが有力視されていた。しかし、7月に松竹が大きく負け越し、シーズン終盤は広島と最下位争いをすることになった。9月に入って、勝率3割に復帰した広島に対し、松竹は勝率3割を維持することができず、勝率2割8分8厘の最下位でシーズンを終えることとなった。
シーズン終了後、松竹への処罰の履行が問題となり、様々なチームとの合併案が持ち上がったが、最終的に松竹は大洋との対等合併を合意し、翌年から「大洋松竹ロビンス」と名称変更することとなった。形式的には対等合併であるものの、1955年シーズンから松竹が球団経営から撤退し、「大洋ホエールズ」に名称を戻していることから、実質的には吸収合併であり、セントラル・リーグ初代優勝からわずか2年で球団が消滅することとなった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1952年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
名古屋 |
2.5
|
大洋 |
3.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.0
|
大阪 |
6.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.5
|
3位
|
大洋 |
4.0
|
大阪 |
3.0
|
名古屋 |
5.5
|
名古屋 |
6.5
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
4位
|
大阪 |
4.5
|
名古屋 |
5.0
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
18.5
|
大洋 |
21.5
|
大洋 |
25.0
|
5位
|
国鉄 |
8.0
|
松竹 |
18.0
|
国鉄 |
21.0
|
国鉄 |
25.0
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
33.0
|
6位
|
松竹 |
9.0
|
国鉄 |
18.5
|
松竹 |
24.5
|
松竹 |
29.0
|
広島 |
37.5
|
広島 |
43.5
|
広島 |
44.5
|
7位
|
広島 |
10.5
|
広島 |
19.0
|
広島 |
25.5
|
広島 |
29.5
|
松竹 |
39.5
|
松竹 |
44.0
|
松竹 |
48.0
|
[1]
できごと
選手・スタッフ
オールスターゲーム1952
この年の松竹ロビンスから選出された選手はなかった。
表彰選手
リーグ・リーダー
|
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
金山次郎
|
盗塁王 |
63個 |
2年ぶり2度目
|
出典