ボビー・トムソン (写真は1948年)
1951年のナショナルリーグ優勝決定プレイオフ について記述する。
プレイオフは1951年 10月1日から10月3日にかけて、ニューヨーク・ジャイアンツ とブルックリン・ドジャース の間で3回戦制で行われ、ニューヨーク・ジャイアンツが制してこの年のナショナルリーグ優勝を手にした。
概要
1勝1敗とした第3戦、リードされていたジャイアンツが9回裏にボビー・トムソン の3点本塁打で逆転サヨナラ勝ちを収めるという劇的な幕切れを迎えた。トムソンの優勝を決めた本塁打は、翌10月4日付のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌で『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world") 』の見出しとともに報じられ、ジャイアンツの球史に残る一発となった。
アメリカは当時朝鮮戦争 の只中にあり、この試合の模様はアメリカ軍のラジオ放送網(AFN )を通じて、派兵先や世界各国のアメリカ軍基地などに中継されており、「世界中が聞いた」という上記の形容がぴたりと当てはまった格好になった。
"Shot heard 'round the world" という言葉は、元々アメリカ独立戦争 に発展するレキシントン・コンコードの戦い の最初の銃声を意味し、ラルフ・ウォルド・エマーソン の「コンコード賛歌」の一説に登場する有名な言葉である。『一発の銃声が世界を変えた』と日本語訳される。
試合結果
表中のR は得点 、H は安打 、E は失策 を示す。日付は現地時間。
第1戦 10月1日
1
2
3
4
5
6
7
8
9
R
H
E
ジャイアンツ
0
0
0
2
0
0
0
1
0
3
6
1
ドジャース
0
1
0
0
0
0
0
0
0
1
5
1
勝利 :ジム・ハーン (17-9) 敗戦 :ラルフ・ブランカ (13-11) 本塁打 NYG:ボビー・トムソン31号2ラン(4回ブランカ)、モンテ・アーヴィン 24号ソロ(8回ブランカ) BRO:アンディ・パフコ 29号ソロ(2回ハーン)観客動員数: 30,707人、試合時間:2時間39分
ドジャースがアンディ・パフコ の本塁打で先制したが、1点を追うジャイアンツが4回表にボビー・トムソンの2点本塁打で逆転、モンテ・アーヴィン のソロ本塁打で追加点を上げて勝利した。
第2戦 10月2日
ドジャースがジャッキー・ロビンソンらの4本の本塁打でジャイアンツを圧倒し、クレム・ラバインがジャイアンツを6安打で完封して勝利した。
第3戦 10月3日
1
2
3
4
5
6
7
8
9
R
H
E
ドジャース
1
0
0
0
0
0
0
3
0
4
8
0
ジャイアンツ
0
0
0
0
0
0
1
0
4x
5
8
2
勝利 :ラリー・ジャンセン (23-11) 敗戦 :ラルフ・ブランカ (13-12) 本塁打 BRO:なし NYG:ボビー・トムソン 32号3ラン(9回ブランカ)観客動員数: 34,320人、試合時間:2時間28分
ドジャースがロビンソンのタイムリーで先制、その後ジャイアンツのサル・マグリー とドジャースのドン・ニューカム の投げ合いが続いた。7回にジャイアンツがモンテ・アーヴィン の二塁打から同点に追いついたが、ドジャースが8回にピー・ウィー・リース 、デューク・スナイダー 、ビリー・コックス らの連打で3点を挙げ、勝敗の行方は決したかと思われた。
しかし9回裏、ジャイアンツは先頭のアルヴィン・ダーク がセカンドへの内野安打で出塁、ドン・ミューラー もライト前ヒットで続く。モンテ・アーヴィン はファーストへのファウルフライでワンアウトとなるが、ホワイティ・ロックマン が左中間へタイムリー二塁打を放ち1点を返す。ランナー1,3塁となったところでドジャースのチャック・ドレッセン 監督はニューカムを諦め、救援にラルフ・ブランカを送る。打席には第1戦でブランカから本塁打を放ったトムソンを迎える。トムソンは初球ストライクの後の2球目をレフトスタンドへ運び、ジャイアンツがサヨナラ勝ちを収めた。
外部リンク
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 ジャイアンツ球団殿堂 ワールドシリーズ優勝(0 8回) ワールドシリーズ敗退(12回) リーグ優勝(23回) できごと 傘下マイナーチーム
球団 歴代本拠地 文化 永久欠番 ワールドシリーズ優勝(0 7回) ワールドシリーズ敗退(14回) リーグ優勝(24回) できごと 傘下マイナーチーム