青山 正明(あおやま まさあき、1960年6月27日 - 2001年6月17日)は、日本の編集者、ライター。東京公司代表。鬼畜系ムック『危ない1号』初代編集長。本名は大塚 雅美(おおつか まさみ)。
大学在学中に「突然変異」を創刊以降も、ロリータ雑誌、音楽情報誌、ビデオ雑誌、スカトロ雑誌、成人向け漫画雑誌、株式情報専門誌、海外旅行雑誌、高校生向けの学習雑誌など様々な雑誌編集に携わりながら、マイナー一筋のライター稼業に従事。
ドラッグ、ロリコン、スカトロ、フリークスからカルトムービー、テクノ、オカルト、辺境音楽、異端思想、精神世界まで幅広くアングラシーンを論ずる鬼畜系文筆家の草分け的存在。1980年代から1990年代にかけてのサブカルチャーに与えた影響は大きく、生前より稀代の天才編集者と謳われた[1]。
1992年には処女単行本『危ない薬』をデータハウスより上梓する。
不定期刊『危ない1号』(データハウス)初代編集長であり、その他「東京公司」名義の編著書として『別冊宝島EX タイ読本』(宝島社)や『アダルトグッズ完全使用マニュアル』(データハウス)などがある。
ドラッグに関する文章を書いた日本人ライターの中では、実践に基づいた記述と薬学的記述において特異であり快楽主義者を標榜していた。
2001年6月17日に神奈川県横須賀市の自宅で縊死。40歳没。
1960年、神奈川県横須賀市生まれ。海上自衛官の父親と子煩悩な母親のもとで生まれ育つ。小学3年生の時、父親が南山宏の著書『超自然のなぞ』を買い与えた事がきっかけで、怪奇やオカルトなどの超常現象に強い興味を持つ[2]。勉強は全くしなかったが、幼少期より神童ぶりを発揮し、九九の計算を25秒で言える少年として学校中で有名となる[2]。通信簿の成績は常にオール5であった。中学時代の統一模試では2年連続で県内1位を獲得する[2]。
高杉弾の伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』に大いなるショックを受け、1981年4月、慶應義塾大学法学部在学中に慶應義塾大学と専修大学の学生4人でキャンパスマガジン『突然変異』(突然変異社)を創刊する[注 1]。小学校の盗撮や差別用語のクロスワードパズル(パズルを解くと皇太子の顔写真になる)といった鬼畜企画を始め、障害者や奇形、ドラッグ、ロリコン、皇室揶揄まで幅広くタブーを扱った[3]。青山は『突然変異』創刊号の編集後記に以下の文章を寄稿する。
一昨年あたりから、杉森などを筆頭に超低レベルのキャンパスマガジンが粗製乱造され始めた。そして、この雑誌白痴化はキャンパス誌だけに留まらず、大会社の出版物に迄波紋を広げた。否、元々大手の雑誌など糞みたいな物ばかりだったに相違ない。大衆の要望を反映している物が良質であるはずがないのだから。〔……〕娯楽としての雑誌はもはや大衆に媚びり、大衆に飽きられた。何とミジメではないか。これからの読者は何と言っても勉強しかない。読者が筆者と共に勉強して行く以外には雑誌の質の向上は望めない。宝島然り、遊然り、フールズメイト然り。そして私にとっては、過激こそ手段。極端こそ美。極限こそ真実。この表現がどのように誌面に反映されるのか? まずは人を怒らせる事から始めよう。
その後『突然変異』は順調に売り上げを伸ばし、当時のロリコンブームに乗ってマスメディアからの取材も殺到、熱狂的な読者を獲得したものの『突然変異』に嫌悪感を抱いた椎名誠が同年8月に朝日新聞紙上で「こういうのは典型的なビョーキ雑誌というのである。ゴミ雑誌、ゴキブリ雑誌。バイキンをまき散らすだけの雑誌なのだ。書店はもっと中身をきちんと見て扱った方がいい」と一方的に断罪、糾弾する内容の批判文を発表する[4]。これに追従する形で抗議や脅迫の電話が殺到し、直販先の書店が取り扱いを拒否するなどしたため、わずか4号で休刊に追い込まれた。一方で『突然変異』編集部は椎名に対し以下の批判文を誌上で発表した。
権威の頂点に立つ天皇も、弱者である精薄児も同じレベルでチャカしているわけで、そこには差別意識はないとハッキリ言っておきます。すべてを同等と考える上で、これは一つの試みである筈です。あなたが「良識」を振り回すなら、こちらにもこちらの「良識」があるのです。
翌1982年2月、青山ら『突然変異』編集部は『週刊プレイボーイ』『ヘイ!バディー』誌上にて公開挑戦状を掲載。椎名に決闘を申込み、上野動物園のキリン舎前にて待合わせをするも、椎名は現れずに終わった[5]。
1981年10月、『突然変異』2号掲載の「六年四組学級新聞」を見た高取英の紹介[6] で白夜書房の男性向け総合月刊誌『ヘイ!バディー』の高桑常寿編集長[7] から原稿依頼があり、同誌12月号の特集「少女の時代」にロリータ記事「HOW TO LOLITA」を寄稿、これが商業誌デビューとなる[8]。
同誌1982年2月号からは『突然変異』編集部の谷地淳平と共同で「6年4組学級新聞」の連載を始める[9]。連載中に同誌もロリータ総合情報誌に路線変更し、ロリコンブームの主翼を担うことになる。この連載は1982年9月号まで続き、10月号からは「Flesh Paper」(肉新聞)に改題する[8]。内容もロリータから大きく外れ、ドラッグやフリークス、カルトムービーの紹介など青山独自の路線となった。また本誌以外にも『ロリコン大全集』『ぺぴ』『VIDEOロリータ』『ロリータスナイパー』『ロリータスクランブル』『にんふらばあ』『なおこちゃん』など各ロリコン誌で執筆活動を行う[10]。
1982年8月に発売された日本初のロリータビデオ『あゆみ11歳 小さな誘惑』ではヒロインに懸想する青年役として出演する[11][12][13]。青山によると、3万円という高額なビデオにもかかわらず4000本が即完売したという[14]。
1983年、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。大学卒業後は自然食品メーカーやソフトウェア会社でプログラマーとして働くなど転々とするが、1984年11月よりフリーライターとして独立する。
その後はスーパー変態マガジン『Billy』(白夜書房)や『にんふらばあ』(麻布書店)などに原稿を書きながら、1985年春創刊のスカトロ系エロ雑誌『フィリアック』(求龍社)で編集長を務めたほか[15]、『スカトピア』『スカトロスペシャル』『コプロラビア』『フィーメール』『MASPET』など各スカトロ誌でも執筆活動を行う[15]。
しかし、主な活躍の場であった『ヘイ!バディー』が1985年11月号をもって廃刊となり、青山もロリコンライターを事実上廃業する[10]。なお『ヘイ!バディー』廃刊の原因は増刊『ロリコンランド8』に掲載された少女の無修正ワレメ写真がわいせつ物と判断され発禁回収処分となり、性器の露出が許されなくなった為である[10]。1987年には児童エロチカの最後の砦であった少女ヌード写真集『プチトマト42』が警視庁から摘発され発禁となり[16]、第1次ロリコンブームは終焉を迎えた[17]。
1985年11月にSMマニア増刊として異端文化研究エロ雑誌『サバト』(三和出版)を創刊。作家陣に高杉弾、永山薫、秋田昌美、丸尾末広、蛭児神建、日野日出志、栗本慎一郎らを招き、妊婦のSMからスカトロ、獣姦、死体、奇形、妖怪、呪術、拷問、魔女狩り、黒魔術、ドラッグ、ロリコン、ホラー映画まで総合的に変態趣味を扱った。雑誌のサブタイトルは「超変態世紀末虐待史」。結局『サバト』は創刊号のみで廃刊となったが、本誌のスタイルは後に青山が編集長を務める『危ない1号』にそのまま引き継がれることになる。
1986年春にはJICC出版局(現・宝島社)よりカルト映画やホラー映画をまとめた処女単行本が刊行予定だったが、締め切りに間に合わず幻に終わる[15]。同年より大正屋出版に入社し、特殊エロ漫画誌『阿修羅』『カリスマ』の編集を行う[18]。
同社の倒産後は株式投資関連の情報誌『産業と経済』などの編集に関わる一方で『Crash』(白夜書房)や『BACHELOR』(ダイアプレス)に鬼畜変態コラム「Flesh Paper」の連載を再開する[19]。この頃は10誌以上の雑誌で映画評論の仕事を持つなど映画評論家としての側面も強かった[18]。1987年5月には『エイズ最新情報と怖くない生活法』(主婦の友社)をゴーストライターとして執筆する[20]。
1990年より特殊海外旅行誌『エキセントリック』(全英出版/中央法科研究所)の編集をした縁から後に右腕となる吉永嘉明と知り合う。その後『エキセントリック』編集部を母体とした編集プロダクション「東京公司」を設立。東京公司の名義で『アダルトグッズ完全使用マニュアル』(データハウス)などの編集を行う。『エキセントリック』の経験は別冊宝島の『タイ読本』『裏ハワイ読本』(宝島社)など特殊海外旅行ムックに活かされる。
1992年にはドラッグの実用的なノウハウをまとめた処女単行本『危ない薬』をデータハウスより上梓する。「全て体験済み!!」と銘打った本書はジャンキーのバイブル的存在となり、現在までに15万部を超えるロングセラーとなっている[21]。
『危ない薬』の好セールスを追い風に青山は、新しいムック企画をデータハウスに提案し、採用される。それが1995年7月より鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス/東京公司)である。当時西新宿にあった東京公司の事務所家賃をデータハウスが肩代わりすることで、彼らの編集活動をサポートした。同誌は「鬼畜系」を標榜し、徹頭徹尾にわたり鬼畜・変態・悪趣味を等価に扱った。東京公司は創刊号冒頭に以下の声明文を発表している。
文中に登場するハサン・イ・サバーという人物は、11世紀に登場したニザール派(イスラム教シーア派の分派・イスマーイール派の一派)の開祖として知られ、暗殺教団アサシンを率いてイランからシリア全土の山岳地帯に要塞を築いたといわれる。東京公司はハサンの「真実などない。すべては許されている」という言葉を引用して「妄想にタブーなし!」と宣言した。
「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」(史上初のカルト・グル、ハッサン・イ・サバーの言葉) 全ての物事には、数え切れないほどの意味やとらえ方、感じ方などがある。例えば、自殺。これを「悲しいこと」「負け犬がすること」とみなすのは、無数にある“自殺のとらえ方”のほんの一部に過ぎない。この世には、祝福されるべき自殺だってあるのだ。 あらゆる物事は、その内に外に、無数の“物語”を秘め、纏っている。『危ない1号』では、これら無数の物語の中から、他の本や雑誌ではあまり語られない物語だけを選びだして語るようにした。さらにその際、一つの物事が含み持つ無数の物語の全てを“等価”と考えるように心掛けた。(中略) この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に“数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。 妄想にタブーなし! — 東京公司「はじめに」『危ない1号』第1巻 データハウス 1995年 2-3頁
全ての物事には、数え切れないほどの意味やとらえ方、感じ方などがある。例えば、自殺。これを「悲しいこと」「負け犬がすること」とみなすのは、無数にある“自殺のとらえ方”のほんの一部に過ぎない。この世には、祝福されるべき自殺だってあるのだ。
あらゆる物事は、その内に外に、無数の“物語”を秘め、纏っている。『危ない1号』では、これら無数の物語の中から、他の本や雑誌ではあまり語られない物語だけを選びだして語るようにした。さらにその際、一つの物事が含み持つ無数の物語の全てを“等価”と考えるように心掛けた。(中略)
この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に“数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で“全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。
このフレーズの確認できる初出は、シルヴェストル・ド・サシの中東の宗教研究書『Exposé de la religion des druzes(1838)』に類似のフレーズがあり、グスタフ・フリューゲルのアラビア語文法研究書『Die Grammatischen Schulen der Araber (1862)』では全く同一のフレーズが登場する。そして、ニーチェが『道徳の系譜(1887)』の中でアサシン団の「至高の自由精神」として引用したことで有名となった。さらに、Betty Bouthoulの『Le grand maître des Assassins(1936)』[22]やウラジーミル・バルトルの『アラムート(1938)』でハッサンの言葉というストーリーが一般化された。しかし、この言葉がハッサンによるものという歴史的な証拠があるわけではない[23]。
前述したハッサンの言葉は、高杉弾や村崎百郎にも多大な影響を与えたウィリアム・バロウズの座右の銘[注 2][26][27]となり、クローネンバーグ監督『裸のランチ』(1991)でも引用されたことで有名になった。また『危ない1号』でハッサンの言葉は次のように解釈された。
まず『危ない1号』の中で使った鬼畜という意味なんだけど、これは世界で初めてカルト集団を作ったハッサン・イ・サバーと言う人物がいて、この人は、ドラッグとセックスで信者に天国を見せておいて、もう一度天国を見せてやるからお前らの命をくれみたいなこと[28] をしたんですが、その人の言葉に「この世に真実などない。だから、何をやっても許される」って言うのがあるんです。それって、ある程度正論なんですよ。たとえば後ろから殴るのは正義に反すると言うけど、誰だって、後ろから突然殴られたくない。だから、私も後ろから殴らないから、あんたも後ろから殴らないでねって言う弱気の正当化でしかない。そんな情けない正義や道徳なんかにこだわらず、もっとオープンマインドで生きようって言うことを読者に提示したかったんです。 — コアマガジン『世紀末倶楽部』第2巻、1996年、198-201頁「ゲス、クズ、ダメ人間の現人神『危ない1号』編集長の青山正明氏に聞く!」(聞き手/斉田石也)
このムックが大ヒットしたことにより、青山は鬼畜ブーム・悪趣味ブームの立役者となるが、第1巻の校了直前に大麻取締法違反で逮捕される[29]。結果的に執行猶予処分となり、同年8月末には保釈されたが、逮捕されたショックから青山はドラッグライターを事実上廃業し[30]、これを境に仕事の打ち合わせに来なくなるなど引きこもりに近い状態になっていく[31]。
また1994年11月には多発性後極部網膜色素上皮症(MPPE)という日本全国で症例50名前後という極めて希少な眼病を患い、後に青山が精神世界に傾倒する要因の一つとなった[32]。
その後『危ない1号』に端を発した大々的な鬼畜ブームが起こるなか、仕掛人である青山はブーム化して濫造された悪趣味に幻滅することになった[33]。
1997年には『危ない1号』の愛読者であった酒鬼薔薇聖斗が神戸連続児童殺傷事件を起こした[34]。
同年『危ない1号』第3巻の編集に青山は、数本の原稿しただけでほぼ関与せず、発売後にフェードアウト。東京公司は、青山を含む一部メンバーがデータハウスに入社する形で消滅。その後の青山は、データハウスの社員編集者として再起を図るも、重度のうつ病で自宅に引きこもるようになり、そのまま会社を辞職した[35]。
1999年9月、『危ない1号』第4巻「青山正明全仕事」が刊行される。第4巻の内容は青山が1982年から1996年にかけて「何を書いても構わない」という方針で各誌に連載したコラム「Flesh Paper」から自選した記事を年代順に並べたものが中心で、この一冊において大体の仕事や文章の特徴が分かる。ちなみにこの「青山正明全仕事」は青山単著の単行本企画だったものが、本人の不調などで作業が延び延びとなり、『危ない1号』の1冊というムック形式での刊行となった。第4巻のサブタイトルは「少女買春から常温核融合まで」。これをもって『危ない1号』は完結した。
その後『BURST』2000年9月号において久々にメディアに登場し、精神神経免疫学や分子生物学、仏教的諦観に基づいた精神世界にまつわる幸福論を唱えた原稿を寄稿する[36][37]。同誌のインタビューでは「鬼畜系にもう新鮮さはない。これからは癒し系で行く」と宣言した。
2001年6月17日、神奈川県横須賀市の自宅で好物の「赤いきつね」を食べた後、首つり自殺[31][38]。
“サブカルチャー”や“カウンターカルチャー”という言葉が笑われ始めたのは、一体いつからだったか? かつて孤高の勇気と覚悟を示したこの言葉、今や“おサブカル”とか言われてホコリまみれだ。シビアな時代は挙句の果てに、“鬼畜系”という究極のカウンター的価値観さえ消費するようになった。「──鬼畜系ってこれからどうなるんでしょう?」編集部の質問に対し、単行本『鬼畜のススメ』著者であり、青山正明氏とともに雑誌『危ない1号』で“電波・鬼畜ブーム”の張本人となった男・村崎百郎の答はこうだった。 鬼畜“系”なんて最初からない。ずっと俺ひとりが鬼畜なだけだし、これからもそれで結構だ。 次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ。 俺の提示した“鬼畜”の定義とは「被害者であるよりは常に加害者であることを選び、己の快感原則に忠実に好きなことを好き放題やりまくる、極めて身勝手で利己的なライフスタイル」なのだが、途中からいつのまにか“鬼畜系”には死体写真やフリークスマニアやスカトロ変態などの“悪趣味”のテイストが加わり、そのすべてが渾然一体となって、善人どもが顔をしかめる芳醇な腐臭漂うブームに成長したようだが、「誰にどう思われようが知ったこっちゃない、俺は俺の好きなことをやる」というのがまっとうな鬼畜的態度というものなので、“鬼畜”のイメージや意味なんかどうなってもいい。 〔……〕ドラッグいらずの電波系体質のためドラッグにまったく縁のない俺だが、それでも青山の書いた『危ない薬』をはじめとするクスリ関連の本や雑誌のドラッグ情報の数々が、非合法なクスリ遊びをする連中に有益に働き、その結果救われた命も少なくなかったであろうことは推測がつく。こんな話はネガティヴすぎて健全な善人どもが聞いたら顔をしかめるであろうが、この世にはそういう健全な善人どもには決して救いきれない不健全で邪悪な生命や魂があることも事実なのだ。青山の存在意義はそこにあった。それは決して常人には成しえない種類の“偉業”だったと俺は信じている。 — 村崎百郎「非追悼 青山正明──またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み」太田出版『アウトロー・ジャパン』第1号 2002年 166-173頁
鬼畜“系”なんて最初からない。ずっと俺ひとりが鬼畜なだけだし、これからもそれで結構だ。
次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ。
俺の提示した“鬼畜”の定義とは「被害者であるよりは常に加害者であることを選び、己の快感原則に忠実に好きなことを好き放題やりまくる、極めて身勝手で利己的なライフスタイル」なのだが、途中からいつのまにか“鬼畜系”には死体写真やフリークスマニアやスカトロ変態などの“悪趣味”のテイストが加わり、そのすべてが渾然一体となって、善人どもが顔をしかめる芳醇な腐臭漂うブームに成長したようだが、「誰にどう思われようが知ったこっちゃない、俺は俺の好きなことをやる」というのがまっとうな鬼畜的態度というものなので、“鬼畜”のイメージや意味なんかどうなってもいい。
当時、ペヨトル工房をやめて、フラフラしてたとこに青山正明から「新雑誌をやるんで」と声をかけられて、彼らが「ごきげん&ハッピー系」を念頭に置いて作っていたさわやかな麻薬雑誌に、ゲスで下品で暗黒文化を無理矢理ねじこんで、気づくと、読むとイヤな気持ちになる雑誌にしてた(笑)。しまいにゃ「鬼畜系」ってキャッチ・コピーまでつけて出させたのが『危ない1号』。 あの頃は記名じゃない記事も書きまくってて、2号目なんて鬼畜記事の3分の1くらいはオレが書いてた。あと、酒鬼薔薇事件というのもあったけど、酒鬼薔薇は『危ない1号』の創刊号を読んでるんだよ。オレの犬肉喰いの記事も読んでるね。酒鬼薔薇が出した年賀状のイラストっていうのが、『危ない1号』の裏表紙に使われたLSDの紙パケのイラストの模写だったから。 賛否両論あったけど『危ない1号』は一応受けて、雑誌も売れて抗議も殺到。おかげで「鬼畜系編集者」の烙印を押された青山が鬱になって、この件も彼の自殺を早めた大きな要因だって、青山の周辺からはずいぶん恨まれました。謝って許されることじゃないから謝らないけどね。今でも悪かったとは思ってるよ。青山の名誉のためにも言っとくけど、青山は鬼畜とは対極にある本当に優しくて親切な良い人でした。彼の雑誌を「鬼畜系」にねじまげてしまったのは全てオレのせいです。他の連中に罪はありません。 — 村崎百郎インタビュー「今こそ『鬼畜』になれ! 『アングラ/サブカル』が必要なわけ」『STUDIO VOICE』2006年12月号特集「90年代カルチャー完全マニュアル」INFASパブリケーションズ、70-71頁所載。
あの頃は記名じゃない記事も書きまくってて、2号目なんて鬼畜記事の3分の1くらいはオレが書いてた。あと、酒鬼薔薇事件というのもあったけど、酒鬼薔薇は『危ない1号』の創刊号を読んでるんだよ。オレの犬肉喰いの記事も読んでるね。酒鬼薔薇が出した年賀状のイラストっていうのが、『危ない1号』の裏表紙に使われたLSDの紙パケのイラストの模写だったから。
青山さんの葬儀で、僕は棺桶に入った冷たい遺体を見た。その顔は苦痛に歪み、ホラー映画のようで、いかにも苦しい、という顔をしていたのだ。顔色もドス黒い緑色をしており、化学物質の摂りすぎという不健康な印象を与えた。青山さんの死に顔は、まるでムンクの「叫び」のような恐怖でゆがんだ表情だった。健康に気を遣いすぎるほど気を配る人だった。缶の日本茶を飲むときでも「空気に長時間触れると、缶が酸化して体に毒だから」とわざわざ移し替えていたほどの人が、いったいなんでこんなに化学薬品をとりすぎて破滅したのだろう。これは推測でしかないけれど、僕がつき合ってきて見てきた性格とか、デスマスクの表情を基に判断すると、青山さんはやっぱり死ぬのが怖かったんじゃないかと思う。僕は青山さんの二人の元・奥さんに、僕が推察した彼の自殺の原因を確認してみた。総合すると、「心配事製造工場」たる青山さんは、種々の悩みをかかえ、その上でヘロインと覚醒剤のリバウンドとドラッグ購入のための借金苦が重なり、どうにもたまらなくなって死んだのではないだろうか。僕にはそう思える。
『ニッポン戦後サブカルチャー史』(Eテレ)の講師である宮沢章夫は『危ない1号』以降の青山正明の迷走について次のように述べている[44]。
おそらく『危ない1号』において青山が発したメッセージの「良識なんて糞食らえ!」にしろ「鬼畜」という概念にしろ「妄想にタブーなし!」にしろ、すべて「冗談」という、かなり高度な部分におけるある種の「遊び」だったはずだ。しかし、良識派に顰蹙をかうのは想定内だっただろうが、一方で冗談が理解できずにまともに受け止めた層が出現したのは想定外だったということか。2ちゃんねる(のごく一部)、ネットにおけるある種の層に直線的に浸透し、しかも、遊びではなく本気でそれをする者らが現れたと。