阿部 正恒(あべ まさつね)は、江戸時代末期の大名、明治時代の華族。佐貫阿部家の9代目当主で、上総佐貫藩第8代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。位階は従三位。
天保10年(1839年)9月29日、第7代藩主阿部正身の妾腹の長男(庶長子)として生まれる。嘉永7年(1854年)閏7月25日、父の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下・因幡守に叙任される。
安政5年(1858年)の徳川家茂将軍就任式に列席してその様子を「勤書」として書き残している(国立史料館所蔵「阿部家文書」所収)翌6年(1859年)8月に竹橋門番に任じられ、12月に江戸城本丸普請を担当した。後に日光祭礼奉行代にも任じられている。元治元年(1864年)7月に駿河守に遷任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、旧幕府軍の脱走兵で構成された徳川義軍府に対して援軍を送り、これに反対した家老を粛清するなどして新政府と敵対したが、敗退して新政府に武器弾薬を差し出して降伏し、勝隆寺で謹慎を命じられた。そして10月に罪を許されている。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により佐貫藩知事に任じられ、明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となった。7月の廃藩置県で知藩事を免職される。1881年(明治14年)7月5日に隠居し、家督は嗣子の正敬が継承した[1]。
1899年(明治32年)10月に従三位に昇叙されたが、同月に死去した。享年61。
父母
正室
子女