佐貫城(さぬきじょう)は、千葉県富津市佐貫にあった日本の城。江戸時代には佐貫藩の藩庁が置かれた。
概要
佐貫城は、真里谷氏(真里谷武田氏)によって築かれた平山城。古文書から永正年間から天文6年(1537年)にかけて真里谷全芳(武田信秋)が城主を務め、加藤氏が城代を務めたと推測されている。加藤氏は『鎌倉大草紙』に登場する武田信長の家臣・加藤入道梵玄の末裔と推定され、真里谷氏の没落後も佐貫の有力者として時々の支配者に従った[1] 。
天文6年(1537年)以降のある時期[2]に安房里見氏の支配下に入ると、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線として重要な役割を果たした(ただし、近年の古文書研究により、後北条氏が同城を占拠して城代を置いていた時期も存在していたことが判明している)。里見氏安房移封以降も城郭として維持され、17世紀末から18世紀初頭の一時期を除き、明治維新まで維持された。
歴史・沿革
構造
佐貫の地は今の鶴峯八幡神社付近と推定される「八幡浦」と称する港町があり、江戸内海を挟んで三浦半島と直接向かい合っていた。更に地形の関係で内房方面を南北を貫く複数の街道が(沿岸ルート・内陸ルートを問わず)必ず合流する場所であると共に、佐貫から神野寺・清澄寺・誕生寺を経由して外房方面に至る山道が走っており、古くから参詣者に用いられていた。そのため、早くから市場や宿場町が形成されて経済・交通の中心地となっており、甲斐国から鎌倉(三浦半島)を経て上総に進出した武田氏によって同地に城が築かれて、後に里見・北条両氏の攻防の舞台になったと考えられている[1]。
北上川と染川により開析された二つの谷に挟まれた丘陵端に占地する。城域の東には陣場、陣場谷と呼ばれる谷が深く入り込んでおり、西側の城域と背後の丘陵を分断している。また、城域内部にも黒部谷を始めとする谷が入り込み、主郭部の位置する尾根他幾つかを除き多くは痩せ尾根となっている。
郭は城山の本丸から南西に向けて二の丸及び三の丸が配置されており、佐貫城の主郭部をなしている。本丸の背後には更に、産所谷から上宿に掛けて尾根筋に郭が連なり、黒部谷を隔てて城域南東端の北新宿付近にも郭が設けられている。三の丸から本丸に至る主郭部には、本丸虎口を始めとして、櫓台、虎口、空堀、土塁等が効果的に配置されており、里見氏移封以降改修されたものと考えられるが、黒部谷及び上宿を取り巻く郭群には、尾根上に削り残し土塁を伴う削平地を設ける、里見氏流築城術の特徴が見られる。
考古資料
遺構
山上の遺構は良く残り、空堀、石垣、土塁、井戸等が往時の姿を留めている。空堀の幾つかには里見氏流築城術の特徴を示す岩盤を削った切岸が見られ、また、三の丸櫓台を始めとして、上総国には珍しい石積遺構が残るのも本城の特徴である。
脚注
- ^ a b c 滝川恒昭「戦国期の上総国佐貫に関する一考察-加藤氏・佐貫城も検討を中心に-」(佐藤博信 編『中世東国の社会と文化 中世東国論:7』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-981-8)
- ^ 滝川恒昭はこの頃まで佐貫は後北条氏ー真里谷氏の勢力圏にあったものの、河越城の攻防(河越夜戦)で房総の後北条勢力が一時的に後退したのを機に里見氏が進出したとみる。
外部リンク