鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、江戸時代末期の大名、明治前期の華族。
肥前国蓮池藩第9代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。
文政9年(1826年)5月25日、第8代藩主・鍋島直与の長男として蓮池館で生まれる。幼少時は藩校・成章館で学んだ。天保14年(1843年)5月以降は、成章館教授・満野荷州(順、代右衛門)が侍講として教育にあたった。弘化2年(1845年)7月28日、父の隠居により家督を継ぐが、元治元年(1864年)までは隠居した父が実権を握っていた。
安政元年(1854年)より幕命で5年間の公務猶予が許された代わりに、長崎防備の強化を命じられ、そのための出費で財政がさらに悪化した。このため、借金が一気に増大している。元治元年(1864年)の第1次長州征伐では幕府方として1000人の兵を出し、父の命令で京都にも出兵している。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争では新政府に恭順して、弟石井忠躬を名代に任じ出羽秋田藩に出兵した。明治2年(1869年)の版籍奉還で蓮池藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治4年11月5日(1871年12月16日)に隠居し、家督は養子の直柔が継承した[1]。
明治24年(1891年)2月23日、東京麻布邸で死去した。享年66。
父母
正室、継室
子女
養子