野性的な外見や性格を持つ者を意味する野性児 とは異なります。
野生児 (やせいじ、英 : feral child )は、なんらかの原因により人間社会から隔離された環境で育った少年・少女のこと。野生人 (やせいじん、feral man)とも[ 1] 。特に狼 に育てられたと伝えられる事例は多く、wolf child (日本では狼少年 、狼少女 、狼っ子 (おおかみっこ))といわれる。
野生児の分類
野生児には次の3種類がある[ 2] 。
動物化した子ども 。つまり、獣が人間の赤ん坊をさらったり、遺棄された子供を拾ったりして、そのまま動物によって育てられた場合。育てていた動物としては、狼・熊・豹・豚・羊・猿・ダチョウといった事例が報告されている。育て親の動物については地域によって特徴があり、東欧では熊、アフリカでは猿、インドでは狼の報告が多い[ 3] 。代表例は狼に育てられたとされるアマラとカマラ 。
孤独な子ども 。つまり、ある程度は成長した子供が森林などで遭難したり捨てられたりして、他の人間とほとんど接触することなく生存していた場合。絶対的野生児。代表例はアヴェロンの野生児 。
放置された子ども 。つまり、幼少の頃に適切な養育を受けることなく、長期間にわたって幽閉されていたり放置されていた場合。擬似野生児。野生で育ったわけではないが、幼少期に十分な人間社会との接触が得られなかったという意味で野生児と同等に扱われる。代表例はカスパー・ハウザー 。
それぞれの代表例として挙げたアマラとカマラ、アヴェロンの野生児、カスパー・ハウザーについては資料が比較的しっかりと残っており、野生児の研究ではよく取り上げられる。ただし乳児から人間を別種の動物が育てるのはその動物に育てる気があっても非常に困難であり[ 4] 、「動物化した子ども」のカテゴリーはアマラとカマラを含め大半の話が捏造とみなされていて、実際は発達障害等のため捨てられた「孤独な子ども」を動物と結びつけた創作話が多く紛れ込んでいるというのが定説となっている。
野生児の記録
狼の乳を飲むロームルスとレムスの像(カピトリーノ博物館 蔵)
野生児の事例はこれまでに多数報告されている[ 5] 。動物に育てられた子どもの話は神話 ・伝説 の中にも見受けられ[ 6] 、例えばローマ神話 においてロームルス とレムス は狼によって育てられたとされる。社会心理学 者のルシアン・マルソン は、1344年 発見のヘッセンの狼少年から1961年 発見のテヘランのサル少年まで53のケースを表にまとめており[ 7] 、人類学 者のロバート・ジング も35のケースについて解説を行っているほか[ 8] 、31人について各々の野生児の特徴をまとめた総括表も作成している[ 9] 。
しかし、古い事例では信頼性のある詳細な記録が残っていない場合が多く、ロバート・ジングは「ミドナプールの野生児(アマラとカマラ)が、これまで(1942年 頃まで)に蓄積された記録のうち科学的資料として認められる唯一の例」だとしている[ 10] 。ただし、アマラとカマラの事例についても、その真実性には議論がある(アマラとカマラ の項目を参照)。
また、野生児だと思われていた事例が、後にそうでないと発覚したこともある。1903年 に推定12~14歳で捕らえれ、類人猿に育てられていたとされていた南アフリカのひひ少年リューカスは[ 11] 、ロバート・ジングによってつくり話だと指摘された[ 12] 。また、1976年 5月にブルンジ で発見され、猿 と一緒に4年程度生活していたとされる少年は[ 13] 、1978年 に心理学 者のハーラン・レイン によってそうではないことが判明した[ 14] 。
野生児が発見・保護された場合、後述するように社会性を失い痴愚的な状態となっているため、人間らしくするための教育が行われることが多いが、ほぼ完全に人間らしさを取り戻した事例は少ない。比較的回復に成功したと考えられるケースとしては、カスパー・ハウザー 、小ターザン、ソンジーの少女、隔離児イザベル などが挙げられる(主な事例 の節を参照)。保護された野生児を教育しなおす場合、「動物化した子ども」「孤独な子ども」のケースでは動物との生活や野生での生活で身につけた習慣・条件付けを除去しなければならないが、「放置された子ども」のケースではその必要性はないため、孤立の期間が短ければ回復できる場合が多い[ 15] 。
野生児の事例は、「人間の幼少期に覚えた習慣は恒久的なものとなる」「発達初期段階に社会との接触が得られないと、その後の社会化が困難になる」といったことの根拠としてしばしば用いられる[ 16] 。
野生児の特徴
もともと野生人という概念は生物学者のリンネ が著書『自然の体系』において初めて科学的に扱った[ 17] 。リンネは野生児ピーター やクラーネンブルクの少女、ソンジーの少女などの実例をいくつか挙げ、野生人の特徴として
四つ足
言葉を話さない
毛で覆われている
の3つを指摘した。このうち3つ目の多毛という特徴は妥当でないことがわかっている(多毛であると報告された野生児の事例の方がわずかである[ 18] )。ただし、正常な歩行が困難・音声言語を持たないという特徴は多くの事例に適合する[ 19] 。
このほかに、野生児には
暑さや寒さを感じないなど感覚 機能が低下している
情緒 が乏しく人間社会を避ける
羞恥心 がなく衣服 を着用しようとしない
相応の年齢になっても性的欲求 が発現しにくいまたは発現しても適切な対象と結び付けられない
生肉・臓物など調理 されていない食品 を好む
といった特徴がしばしばみられる[ 20] 。
野生児が発見・救出されたあとは、共通して痴愚的な状態となっているが、このことからもともと野生児たちは知的障害 児あるいは自閉症 児であり、だからこそ親に捨てられて野生化したのだと考える人もいる。実際にディナ・サニチャーの事例などは先天的な白痴であったと考えられている。しかし、救出されたのちにほぼ完全に知的に回復した野生児の事例も存在するほか、「何人かの野生児は野生で生き延びるための手段・技能を自力で開発しており、先天的な知的障害であればそういった知恵が働かなかったはず」という反論もある[ 21] 。
主な事例
数字は「#野生児の分類 」に準じる。
ヘッセンの狼少年
分類:1
7~12歳ぐらいのときに、ドイツ のヘッセン で狼といっしょにいるところを捕獲された少年。発見された時期については1341年 との報告と1344年 との報告の2つがある。同じ時期にヴェッテラヴィーでも野生児が捕らえられている[ 22] 。
クラーネンブルクの少女
分類:2
1717年 8月、クラーネンブルク の山中で保護された少女。言葉はきちんとしゃべれなかった。1718年 1月、母親が見つかり引きとられ、その後のことは不明となっている。少女は生後1歳4か月の1700年 5月5日 に誘拐されたまま行方がわからないとされていた(つまり発見当時18歳だったということになる)[ 23] 。
野生児ピーター
分類:2
1724年 7月27日 に発見され、ピーターと名付けられた野生児。ただし発見時のエピソードなどに関して関係者の証言の相違点・矛盾点が指摘されている。スウィフト の作品中にも登場する[ 24] 。
ソンジーの少女
分類:2
1731年 9月、フランス のシャンパーニュ 地方ソンジー村で発見された少女(ただしそれまでに別の場所で捕獲されたり発見されたりしている)。発見当時9~10歳程度。魚やカエルを生のまま食べ、しゃべるかわりに金切り声をあげた。その後、野生児の例としては珍しくある程度言葉を話せるようになり、尼僧になった。伝記作家のラ・コンダミーユ は、彼女が2度海を渡ったことがあると話したことから、彼女はエスキモー 出身だとしている[ 25] 。
クロンスタットの野生児
分類:2
トランシルバニア とワラキア の間で発見され、クロンスタット に移送された22~25歳程度の青年。少なくとも1784年 には生存していたとされるが、同年クランスタットを離れ、その後は不明。女性を見かけるとすぐに喜びの大声を上げて欲望を表現したとされるが、これが本当なら成熟した野生人が示した唯一の性的行動の記録といえる[ 26] 。
アヴェロンの野生児
分類:2
1797年 に南フランスのタルヌ県 で捕らえられた少年。医師のジャン・イタール により熱心な人間化のための教育がなされた。
カスパー・ハウザー
分類:3
1828年 3月26日 にドイツのニュルンベルク で発見された少年。幼少の頃のほとんどを地下牢のような場所に幽閉されていたと考えられている。発見後めざましい回復を遂げたが、1833年 12月17日 に暗殺される。
デビルズリバーの狼少女
分類:1
1845年 メキシコのデビルズ川 (英語版 ) 付近で狼の群れに混じって10歳程度の女の子がいることが発見された。一度捕まえたものの、狼の群れが襲ってきて、その隙に逃げられた。
スリーマン卿が報告したインドの狼っ子
分類:1
インド のアウド王国 の軍人のスリーマン卿が、著書の『アウド王国旅行記(1849-50年)』(A Journey through the Kingdom of Oude,in 1849-50)において、狼によって育てられた6人の野生児について報告している。スリーマンは、ヒンズー教徒は狼を殺そうとしないためインドにおいてこのような事例が多く発生したと考察している[ 27] 。
オーバーダイクの救貧施設で保護された野生児
分類:共に2
ドイツのオーバーダイク にあったレッケ伯爵の救貧施設では、2人の野生児が保護されていたとされ、文化人類学 者のタイラー の論文によって1863年 に報告された[ 28] 。
1人目の野生児は、血を流した状態で救貧施設にたどり着いたところを保護された。保護されたときは、ほとんど言葉を話せなかった。その後精神発達がみられ、豚 といっしょに生活をしていた過去を語った。
2人目の野生児は、鳥とその習性について高い知識を持っていたとされる。木に登って鳥や卵をとって食べるのがうまかったという。
野生児サニチャー
分類:2
1867年 にカジャール族の男性によって狼の巣穴から発見されたインドの少年。もともと白痴であったと考えられている。資料は比較的豊富に存在し、本人の写真も残されている[ 29] 。
発見後、1895年 に死去するまでシカンドラ孤児院 で過ごしていたが、この孤児院ではサニチャーのほかにも野生児を保護していた事例が報告されている[ 30] 。
インドの豹少年
分類:1
インド で発見された、豹 に育てられた少年。その後両親が見つかり、引き取られた。1920年に『ボンベイ博物学協会』誌で報告された[ 31] 。
アマラとカマラ
分類:1
1920年 にインド のミドナプール 付近で狼とともに発見された2人の少女。発見・保護したシング牧師によって詳細な養育記録が残されているが信憑性に関して疑いがある。
小ターザン
分類:2
エルサルバドル で1933年 頃に捕獲され、ソンソナーテ市 に移送された少年。発見当時5歳程度で、叫び声やほえ声を上げるだけでほとんど話せず、原始的な状態だった。その後、農業 の専門学校でルーベンと名づけられて教育を受け、年齢相応の読みや算数ができるようになった[ 32] 。
隔離児アンナ
分類:3
5歳まで物置に監禁されていた少女。
1932年 3月6日 に生まれたアンナは、1938年 2月にペンシルベニア州 から27kmほど離れた農家の物置で発見されるまで、監禁状態だった。救出直後は、立つこともしゃべることもできず、無表情・無関心な状態だった。その後、運動機能などは少しずつ回復したが、言語は習得できなかった。1942年 8月6日 に病死。ほぼ同時期に救出された後述のイザベルの例とよく比較される。
隔離児イザベル
分類:3
6歳まで、日光のさえぎられた部屋に母親とともに監禁されていた少女。
1932年 4月生まれのイザベルは、1938年 11月に救出されるまでの間、言葉を話せず知能も遅れていた母親とともに監禁されていた。救出時は歩くことができず言葉もしゃべれなかったが、劇 やパントマイム も取り入れた言語訓練の結果、1940年 6月の記録では1500~2000の語彙を獲得することができたとされている。
サハラのカモシカ少年
分類:1
1960年 にサハラ砂漠 でカモシカ と暮らしているところを発見された少年。捕獲はされず、ジャン・クロード・アルメン によってその様子が観察された。ただし、詩人 であるアルメンによって物語的に報告されているので、実証性のある科学的資料とはいえない。1966年 と1970年 にアメリカ軍 による捕獲作戦が行われたが成功していない[ 33] 。
隔離児ジーニー
分類:3
1970年 11月4日 にアメリカ で救出された少女。1歳過ぎから13歳で救出されるまでの間、ずっと部屋に監禁されていた。
日本での隔離児の事例1
分類:3
1970年代 に日本 でも、3.3平方メートル程度の囲いの中に2年間以上監禁されていた女の子が救出された事例がある。発見当時は6歳だったが発達は1歳半程度とされ、言葉も数語程度しか話せなかった。しかし救出後には専門家の予想を上回るペースで回復していき、3年後には運動能力は年齢相応の水準に達した。学習面でも、短期記憶力に難はあったが、中学卒業後には無事に県立高校に合格することができた[ 34] 。
日本での隔離児の事例2
分類:3
1972年 10月18日 に山梨県 で、6歳女児と5歳男児の姉弟が左官である37歳の実父により1年半監禁されていた事件が明らかになった。救出時2人は身長80cm、体重8kg程度で、喋らず歩行もできなかった。2人には他に年子の兄弟が5人おり、姉弟と一緒に発見された乳児は肺炎で死亡した。保護された2人は順調に発達し、2年遅れで小学校へ入学する。姉は3児の母となり、弟はサラリーマンとして1児の父となった[ 35] 。なお、本事例のケアには発達心理学者の藤永保 が関与し、詳細な医療的記録が残されている[ 36] 。
オクサナ・マラヤ
分類:1
1991年 にウクライナ で保護された少女。発見当時8歳で、それまでの大半の時間を犬 とともにすごしてきた。
ロチョム・プニン
分類:2
2007年 1月13日 にカンボジア のラタナキリ州 で発見された女性。1988年 頃に行方不明となり、発見されるまでジャングル を彷徨っていたとされる。
ロシアのナターシャ
分類:3
2009年 5月27日 に東シベリア のチタ で保護された少女。生まれた直後から犬や猫とともにアパートに閉じ込められ、ロシア語を全く話せないという[ 37] [ 38] 。
ホー・バン・ラン
分類:2
2013年 8月、ベトナム で保護された男性。幼いころから40代までジャングルの中で父とともにほとんど社会と隔絶した生活を送った。
神話伝説中の事例
神話伝説にも動物に育てられた子どもの事例は数多い。
ギリシア神話 では、以下のような例がある。
ゼウス :その父クロノス は、支配権が奪われるのをおそれて子どもを殺した。ゼウスの母は彼と偽って包んだ石を渡し、彼自身はクレタ島 で雌山羊に育てられた。
アイオロス とボイオトス(双子):ポセイドン とメラニッペー の子で、山に捨てられて雌牛の乳を飲んで育った。
テーレポス :テゲア 王の子で、山に捨てられ、牝鹿に育てられた。
アポローン とアカカリスの子は雌狼に育てられた。別の子は山羊の乳で育った。
トロイア 王の息子パリス は、占いによって5日間山に捨てられ、その間熊に育てられた。
アタランテ は父親が森に捨てた後、親切なハンターに見つけられるまで、クマに育てられた。
など、他にも似た例が多い。また、ローマ 建国伝説の英雄とされるレムスとロームルスは雌狼の乳で育てられた[ 39] 。
他
野生児を描いた作品
ジャングル・ブックのモーグリ
実話を元にしたもの
フィクション
関連項目
動物の行動で別種を育てる習性について
ペット 、奴隷 - サムライアリのように異種のアリを捕獲して奴隷化したり、飼育環境下のゴリラなどがネコ・犬を飼育することがある。また犬は多種多様な犬種間で組織を構築する。
托卵 - 鳥や爬虫類などが別種・同種の巣に卵を産み育てさせる習性
共同繁殖 (英語版 ) - 両親だけでなく祖母や群れ全体、異種間ヘルプなどのヘルパーによって育てる習性
救助行動 (英語版 ) - 困った動物がいた場合に助ける習性
相利共生 - 異種間でも信頼関係・相互利益関係を築く社会性 がある。
異種間の養子縁組(adoption アダプション)の例
参考文献
脚注
外部リンク