葭津(よしづ[1][2])は、鳥取県米子市の大字。郵便番号は683-0105[1]。
地理
米子市の北西部、弓浜半島の北部西岸[3]。
小字
小字は境目、跡落、北跡落、五丁開之壱、荒神前、五丁開之弐、山下灘、外堀前、五丁開之参、壱里塚、壱里塚沖、桝田、貫地田、貫地田灘、中川灘、後灘、新川灘、下前、上荒山、荒山沖ノ壱、荒山沖ノ弐、拾六割、石河原、下荒山、大山、中原、豊岡、浜道、宇志呂、西二子山、二子山、鷲塚、山下、下口、薬研山、狸山、八反田、四反場、四拾間割、正門通、横山、石畑、北谷、狐山[4]。
歴史
沿革
1658年 - 1661年(万治中)の藩の記録に吉津と書かれてあり、その頃9戸の家があった[5][6]。開墾のはじめは山口、阿川、安田、友森、長谷川、渡部、石橋、松本、吉岡の9戸である[6]。阿川家の元祖は1654年(承応3年)に死亡しており、開発はそれ以前である[6]。
1871年(明治4年)に鳥取県、1876年(明治9年)に島根県、1881年(明治14年)に再び鳥取県に所属する[3]。1889年(明治22年)に大崎と合併して崎津村ができる。1954年(昭和29年)からは米子市の大字。
地名の由来
鳥取大学教授の徳永職男によると「葭津は江戸時代になって小篠津村の新田として開けたが、万治年間には戸数9戸であったという。古くは吉津と書いた例もあるが、村名の由来は、親村の小篠津が篠の群生するところから名づけられているから、“葭津”は“ヨシの生い茂る海辺の村”という意味であろう。」という[2]。
人口
戸数・人口は、『伯耆志』によると、82戸・504人[5]。1879年、126戸・644人[3]。世帯数・人口は1955年、185世帯・1016人、1965年、232世帯・1048人、1975年、246世帯・992人[3]。2010年、272世帯・855人[7]。
2024年(令和6年)8月31日現在は321世帯・719人[8]。
経済
産業
畑作中心の農業地域である[3]。『共武政表』によると産物は米、麦、甘藷である[9]。
1932年(昭和7年)に刊行された『商工資産信用録 第33回 中国四国版』によると、商人は菓子・茶の阿川、日用品酒の阿川などがいた[10]。1960年(昭和35年)6月1日現在で実施した昭和35年事業所統計調査の副票1を用いて作成された『鳥取県事業所名鑑 昭和36年版(統計資料 第45号)』によると、職別工事業の柴垣がいた[11]。企業・店舗は友森ブロック、門脇鶏卵、石橋鶏卵所、飲食料品小売業の阿川商店、石橋商店、友森商店、矢倉商店、水運業の松本丸、ふくやクリーニング店、山口精米所などが存在した[11]。
- 農業
- 漁港
- 店舗・企業
地価
『西伯之資力 大正11年10月調』によると、地価金200円以上所有者は以下の通り[17]。
地域
健康
- 医師
- 治療院
相談
施設
- 宗教
- 研修施設
- 工業団地
- 組合
- かつて存在した組合
交通
出身・ゆかりのある人物
脚注
参考文献
- 『共武政表 明治十二年 下』、1879 - 1881年。
- 内務省衛生局編『日本医籍』忠愛社、1889年。
- 『全国産業組合一覧 訂2版』産業組合中央会、1912年。
- 景山粛『伯耆志 巻三』因伯叢書発行所、1916年。
- 西伯の資力調査会編『西伯之資力 大正11年10月調』西伯資力調査部、1922年。
- 『商工資産信用録 第33回 中国四国版』商業興信所、1932年。
- 鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』鳥取県神職会、1935年。
- 鳥取県総務部統計課編『鳥取県事業所名鑑 昭和36年版(統計資料 第45号)』鳥取県総務部統計課、1961年。
- 徳永職男『因伯地名考 村々の名はこうして生まれた』鳥取郷土文化研究会、1975年。
- 森納『弓浜半島と夜見村』、1977年。
- 松岡忠男『限秒』松岡忠男、1979年。
- 遠藤二郎編『中海周域小字名彙』遠藤二郎、1982年。
- 『角川日本地名大辞典 31 鳥取県』角川書店、1982年。