総統官邸 (そうとうかんてい)、または首相官邸 (しゅしょうかんてい)(独 : Reichskanzlei 、英 : Reich Chancellery )は、ベルリン の中央省庁の建ち並ぶヴィルヘルム街 (ドイツ語版 ) に設けられていた、ドイツ帝国 以降のドイツ国首相 が官邸 として使用した建物。ナチス・ドイツ の総統 アドルフ・ヒトラー が官邸として使用したため、以降は「総統官邸」と邦訳される。
現在総統官邸といわれるものは、ヴィルヘルム街77番地にあった首相官邸本館、78番地にあった官邸の拡張部分、ヴィルヘルム街と直角に交わるフォス街 に延びていた総統官邸新館 (ドイツ語版 ) (フォス街1-19番地)の三つの建物の総称である。
ヴィルヘルム街沿いには外務省、法務省、財務省、国民啓蒙・宣伝省 、航空省 (現在は連邦政府の財務省)等、ドイツ国政府の中央官庁があった。さらに南のプリンツ・アルブレヒト通り(現在のニーダーキルヒナー通り) (ドイツ語版 ) には、ゲシュタポ の本部もある。
歴史
首相官邸
18世紀から19世紀にかけて、ヴィルヘルム街沿いには貴族や軍人の宮殿のような邸宅が立ち並んだが、これらは19世紀にはプロイセン王国 政府やドイツ帝国 政府の中央官庁や大臣官邸として買い上げられ、一帯は官庁街となった。ヴィルヘルム街77番地の建物は、1739年 に建てられたロココ様式 の邸宅で、シューレンブルク宮殿(Palais Schulenburg)とも、アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ 公が購入して住んだことからラジヴィウ宮殿(Palais Radziwill)とも呼ばれた。首相官邸の起源は、1878年 に初代統一ドイツの首相 ビスマルク がヴィルヘルム街77番地の建物をドイツ国首相宮殿(Reichskanzlerpalais)として使用したことに遡る。ビスマルクは後に名称を Reichskanzlerpalais から Reichskanzlei(首相官邸、または宰相官邸)へと変更している。
ヴァイマル共和政 期にも首相官邸として用いられた。また大統領 はヴィルヘルム街73番地のドイツ国大統領宮殿 (ドイツ語版 ) に居住した。1930年には首相官邸は南隣りのヴィルヘルム街78番地にまで増築された。
総統官邸
1934年8月にヒンデンブルク 大統領が死去すると、首相職(政府首班)と大統領職を統合した上で、大統領の権能は「指導者及び首相(Führer und Reichskanzler )であるアドルフ・ヒトラー個人 」に移譲された。これ以降、ヒトラーの地位は日本では一般に「総統 」と呼ばれるようになり、ナチズム期における「Reichskanzlei」 の訳語として「総統官邸」も用いられるようになった。ドイツ国大統領宮殿は存続し、オットー・マイスナー をトップとする大統領官房 (ドイツ語版 ) が引き続き置かれたものの、ヒトラーはあまり利用しなかった。
1935年、ヒトラーは官邸を改造、二階に居住用の私室を設け、外務省に隣接する庭園に国賓等の接遇のために200名収容可能なレセプション・ホールを新築させ、同時に地下に地下壕 を設けさせた。当時はドイツでは防空法なる法律があり、新築の際に防空壕を設置することは特別なことではなかった。また、1930年の増築部分である78番地の建物を彼は気に入らなかった。「まるで百貨店、あるいは消防署のような無味乾燥なファサード である」と酷評していた。
1938年には官邸前に総統の姿を見たいと集まる市民に答えるためにお気に入りの建築家 アルベルト・シュペーア (後の軍需大臣)に命じて総統バルコニー (Führerbalkon) を作らせた。
新官邸
新総統官邸の空中俯瞰図 2.新総統官邸 3.大統領府 6.庭園側玄関 7.総統地下壕への入口 9.車両出入口 10.総統地下壕 12.温室 13.「栄誉の中庭」 15.旧首相官邸 16.食堂 18.1930年に増築された旧首相官邸
1939年 にはシュペーアが設計した新館が完成した。これは78番地の既存の総統官邸に連続してヴィルヘルム街と直角に交わるフォス街沿いにヘルマン・ゲーリング 街(現ゲルトルート・コルマー 街)まで西方向に400m以上も延びる細長い新古典様式の建物である。この建物は旧官邸と区別して新総統官邸 (Neue Reichskanzlei ) と呼ばれる。
新官邸に設けられた主なものは総統の執務室(広さ400平米)、閣僚会議室、食堂、ナチス党官房長 (Chef der Parteikanzlei )マルティン・ボルマン 、総統官邸官房長 (Chef der Reichskanzlei )ハンス・ハインリヒ・ラマース 、大統領府官房長 (Chef der Präsidialkanzlei )オットー・マイスナーの執務室等である。地下には車庫や防空室が設けられた。ヒトラーは1939年1月12日に新年祝賀式をここで行い、各国大使、外交官、政府高官、党要人にお披露目をした。
終焉
崩壊した総統官邸。車の後部座席中央の人物はポツダム会談 のためにベルリンを訪れたトルーマン 。1945年7月15日
第二次世界大戦 が始まると、ヒトラーは前線に近い総統大本営 に居住することが多くなり、官邸が使用される頻度は減少した。連合軍によるベルリン空襲 が始まると、総統官邸も被害を受けている。
1945年1月15日以降はヒトラーは首相官邸旧館に居住し、ソ連軍のベルリン攻撃が始まると中庭に掘られた総統地下壕 に籠もるようになった。1945年 4月30日 、ヒトラーは総統地下壕で自殺した。5月1日 には後継首相に指名されたヨーゼフ・ゲッベルス も自殺し、この建物を使用した最後の首相となった。彼らの遺体は官邸の中庭で焼却されている。5月2日 にはソ連軍 に占領され、総統官邸としての役目を終えた。
戦後
トレプトウ公園に建つソビエト連邦戦没者顕彰碑 (Sowjetisches Ehrenmal ) 総統官邸の赤い大理石が流用されている
新総統官邸はベルリン空襲 での被害は軽微だったものの、ベルリン市街戦 で破壊され廃墟となった。在独ソ連軍政府 は、総統官邸はナチス体制に深く結びつく建物であり、以後右翼による巡礼地とならないよう解体・撤去するよう指令した。1949年 から旧総統官邸が解体され、新総統官邸の解体は1953年 まで続けられた。
建物に使用されていた大理石の一部は、ベルリン市南東部のトレプトウ公園 (en:Treptower Park )内のソビエト連邦戦没者顕彰碑 (ドイツ語版 ) の一部に使われた。地下鉄モーレン街駅 (ドイツ語版 ) の壁面の赤い石材は総統官邸から転用されたという言い伝えもあるが、地下鉄駅の部材は東ベルリン の復興時にテューリンゲン州 の山から直接運ばれたもので、新総統官邸とは関係がない[ 1] 。
撤去された総統官邸の跡地は空き地となり、ベルリンの壁 建設後は東ベルリン側に設けられた無人地帯 の一部となった。1980年代 には、当時オットー・グローテヴォール 街と改名されていたヴィルヘルム街沿いの西側に高層住宅が立ち並べられ、官庁街や総統官邸のあった場所とは想像できない姿になった。官庁街の裏手にあった庭園跡地の一部には2005年、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 が公開された。近年[いつ? ] 、地下防空室の一部が発見され話題を呼んだ。
記録
1939年3月にはチェコスロバキア 大統領エミール・ハーハ を官邸に呼びつけ、モラビア ・ボヘミア の割譲を要求した。1942年6月9日には暗殺された保護領チェコスロバキア の副総督ラインハルト・ハイドリヒ の葬儀が「モザイクの広間」で行われるなどの、歴史の舞台ともなった。
日本人の記録では、1941年に訪独した松岡洋右 外相がバルコニーで手を振る姿が記録として残されている。新官邸のお披露目の際には駐独日本大使大島浩 が招待された。1942年4月20日には在留日本人が総統官邸の参観に招待された。この時に「栄誉の中庭」を進む在留邦人の写真は佐貫亦男 の著書「追憶のドイツ」に残されている。
総統官邸の警備
新総統官邸の完成に伴い衛兵配置も下記のように変更された(一部抜粋)。
第1SS装甲師団 ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー の衛兵部隊及び総統警護隊
ヴィルヘルム街に面した新総統官邸の主玄関に儀仗兵 (Ehrenposten) 2名
車寄せのある「栄誉の中庭」の中玄関に儀仗兵2名
屋内の総統の執務室前に儀仗兵2名
フォス街に面した三つの主玄関のうちに主玄関(西側)に儀仗兵2名
陸軍 衛兵連隊ベルリン (Wachregiment Berlin )
78番地の官邸に儀仗兵2名
フォス街にある大統領府への主玄関(東側)に儀仗兵2名
フォス街に面して主玄関(中央)に儀仗兵4名
ベルリン警察
77番地の官邸(総統居住区)1名
78番地の官邸に2名
ヴィルヘルム街とフォス街の角に1名
RSD (Reichssicherheitsdienst)
77番地の官邸(総統居住区)7名
階段に1名
玄関ホールに1名
エレベーターに1名
突撃隊 連隊「フェルトヘレンハレ」(SA-Standarte "Feldherrenhalle" )
新総統官邸の画像
その他の総統官邸
ミュンヘンの総統官邸
ナチス党 発祥の地であるミュンヘン にも総統官邸(de:Führerbau )は置かれた。ケーニヒ広場 に面したナチス党本部である褐色館 の隣に置かれ、地下でつながっていた。現在はミュンヘン音楽・演劇大学 の校舎となっている。
また、ヒトラーの別荘(ベルクホーフ )のお膝元であるベルヒテスガーデン には総統官邸のベルヒテスガーデン事務所 (ドイツ語版 、英語版 ) が設けられた。
脚注
参考文献
エレーナ・ルジェフスカヤ (ソ連軍 の通訳)『ヒトラーの最期』小林一郎 訳、合同出版 、1965年
コーネリアス・ライアン (戦記作家 )『ヒトラー最期の戦闘』木村忠雄 訳、朝日新聞社 、1967年
ゲルハルト・ボルト (グデーリアン 参謀総長の副官)『ヒトラーの最期の十日間』松谷健二 訳、TBS出版会 、1974年
福島克之 『ヒトラーのいちばん長かった日』光人社 、1972年
Helga Pitz / Wolfgang Hofmann / Jürgen Tomisch Berlin-W. Geschichite und Schicksal einer Stadtmitte , Siedler Verlag, 1984, ISBN 3-88680-098-9
After the Battle(戦時中に連合軍の作成した主要政府機関の所在地図) Berlin, Allied Intelligence Map of Key Buildings , After the Battle , 1990
帚木蓬生 (駐独大使館武官補佐官のベルリン;小説)『総統の防具』日本経済新聞社 、1996年、ISBN 4-532-17046-X
三宅悟 『私のベルリン巡り:権力者どもの夢の跡』中央公論社 、ISBN 4-12-101127-9 、1993年
河合純枝 『地下のベルリン』文藝春秋 、ISBN 4-16-354080-6 、1998年
20世紀の人物シリーズ編集委員会編『ヒトラー最期の真実』光文社 、ISBN 4-334-96113-4 、2001年
Arndt Verlag 編 Hitlers Neue Reichskanzlei, Haus des Deutschen Reichs 1938-1945 , Kiel, ISBN 3-88741-051-3 , 2002
Andrea Steingart 『ベルリン:<記憶の場所>を巡る旅』昭和堂 、2006年、ISBN 4-8122-0601-4
在留邦人の記憶
関連項目
外部リンク
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