滋野 貞主(しげの の さだぬし)は、平安時代初期の公卿。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の次男[1]。官位は正四位下・参議。
平城朝の大同2年(807年)に文章生に及第する[1]。弘仁2年(812年)少内記[1]、弘仁6年(815年)大内記と嵯峨朝にて内記を務めた。早くから詩才が認められ、勅撰漢詩集『凌雲集』に2首が採録されると、弘仁9年(818年)に撰上された『文華秀麗集』ではその編纂に参画している。弘仁11年(820年)外従五位下・兼因幡介、弘仁12年(821年)従五位下[1]・図書頭に叙任される。
淳和朝に入ると、弘仁14年(823年)皇太子・正良親王の東宮学士に任ぜられ[1]、また同年には父の家訳と共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。天長6年(829年)には従五位上に昇叙。天長4年(827年)漢詩集『経国集』20巻の編纂に主選者として参画し[1]、天長8年(831年)古今の文書を分類した日本最古の百科事典『秘府略』1000巻(現存2巻)を撰集している[1]。
天長10年(833年)学士として仕えた正良親王の即位(仁明天皇)に伴い正五位上と二階の加叙を受けると、承和元年(834年)従四位下、承和6年(839年)従四位上と順調に昇進する。またこの間、内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・弾正大弼・大蔵卿を務める傍ら、下総守・相模守・大和守・讃岐守と地方官を兼ねるなど、内外の多数の官職を歴任している。承和9年(842年)には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列した[1]。承和11年(844年)には私邸(城南宅)が西寺の南にあったところ、家人奴婢の殺生を避けるために、これを寺として慈恩寺を建立し[1]、西寺の別院とした。貞主は座禅の合間に方々を巡り歩き、人々に慕われた[2]。同年夏には上表して式部大輔の辞任を請うが許されなかった。承和12年(845年)『便宜十四事』を陳述するが、多くの事項が載っておらず、議論も行われなかったという[2]。嘉祥2年(849年)春に尾張守を兼ねるが、この頃、大宰府の官人の能力が低く衰弊が日増しに甚だしくなっていたことから、貞主は以下の上表を行った[2]。
同年9月に宮内卿を兼ねる。またこの間の嘉承元年(848年年)山崎橋の修復のために派遣された安倍安仁・源弘に同行している[3]。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられ、同年相模守を兼ねる。仁寿2年(852年)口吻に毒瘡を病み、詔により医薬を賜与されるが、葬儀は質素に行うようにとの遺戒を残して、まもなく慈恩寺西書院で没する。その死が伝わると哀惜しない者はなかったと伝えられる。仁寿2年(852年)2月8日卒去。享年68。最終官位は参議正四位下行宮内卿兼相模守。
身長が6尺2寸(約188cm)の長身。元来度量があった。生まれつき思いやりがあり情け深い性格で、話をする際に人を傷つけることのないよう気遣いがあった。また、人々を推挙してその能力に応じて引き上げたという。
長女の縄子は非常に穏やかな性格で立ち居振る舞いも整っていたことから、仁明天皇の女御として殊に寵愛を受けて、本康親王・時子内親王・柔子内親王の3皇子女を産む。また、下の娘の奥子は容姿に優れて、文徳天皇の寵愛を受けるところとなり、これも惟彦親王・濃子内親王・勝子内親王の3皇子女を産んだ。こうして貞主の家は外孫として多数の皇子女を得て繁昌したが、これも貞主の思いやりがあり情け深い性格のおかげであると、世間の人々から評判になったという[2]。
注記のないものは『六国史』による。