源 伊陟(みなもと の これただ)は、平安時代中期の公卿。醍醐天皇の孫。一品・兼明親王の子。官位は正三位・権中納言。
経歴
村上朝の天暦6年(952年)氏爵により従五位下に叙爵し、天暦9年(955年)侍従に任ぜられる。天暦10年(956年)左兵衛権佐になると、天徳2年(958年)左近衛少将と武官を歴任するが、天徳5年(961年)3月には神賢使となり宇佐神宮へ派遣されるが、道中で患って備後国で引き返し、同年8月には狂病を理由に左近衛少将を解任されている。
円融朝の天禄3年(972年)右少弁次いで左少弁に任官すると、天禄4年(973年)正五位下・右中弁、天延2年(974年)従四位下と、弁官を務めながら順調に昇進する。天延3年(975年)左兵衛督を経て、貞元2年(977年)参議に任ぜられ公卿に列した。その後も、天元3年(980年)従四位上、天元4年(981年)造営行事賞により正四位下と昇進を重ねた。
寛和元年(985年)花山天皇の大嘗祭で悠紀国司により従三位、翌寛和2年(986年)一条天皇の大嘗祭でも悠紀国司で正三位と、2年連続で大嘗祭で悠紀国司を務めて昇叙を果たした。永延3年(989年)権中納言に至る。長徳元年(995年)5月22日薨去。享年58。最終官位は正三位権中納言右衛門督。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:兼明親王
- 母:伊勢守源衆望の娘
- 妻:不詳
- 生母不明の子女
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年