淀 |
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淀 |
基本情報 |
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建造所 |
川崎造船所[1][2](神戸[3]) |
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運用者 |
大日本帝国海軍 |
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艦種 |
通報艦[4] |
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母港 |
呉(1920年時)[1] |
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艦歴 |
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計画 |
明治37年臨時軍事費[5](1904年度) |
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発注 |
1905年5月1日製造契約[6] |
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起工 |
1906年10月2日[3] |
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進水 |
1907年11月19日[3][7] |
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竣工 |
1908年7月10日[3] |
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除籍 |
1940年4月1日 |
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その後 |
戦後解体 |
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要目(計画) |
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排水量 |
1,250ロングトン (1,270 t) |
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基準排水量 |
1928年公表値:1,320ロングトン (1,341 t)[3] |
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常備排水量 |
1928年公表値:1,450ロングトン (1,473 t)[3] |
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全長 |
305 ft 6 in (93.116 m) |
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垂線間長 |
280 ft 0 in (85.344 m) |
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最大幅 |
32 ft 1+3⁄8 in (9.789 m) または32 ft 1 in (9.779 m)[1] |
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深さ |
17 ft 10 in (5.436 m) |
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吃水 |
前部:8 ft 6 in (2.591 m) 後部:11 ft 0 in (3.353 m) 平均:9 ft 9 in (2.972 m) 1928年公表値:3.35m[3] |
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ボイラー |
宮原式缶 両面4基[8] |
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主機 |
直立4気筒3段レシプロ[1] |
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推進 |
2軸[1] |
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出力 |
製造要領:6,000馬力 (4,474 kW) 機関計画:6,500馬力 (4,847 kW)[8] |
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速力 |
22ノット (41 km/h) |
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燃料 |
1920年時:石炭339ロングトン (344 t)、重油76ロングトン (77 t)[1] |
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乗員 |
1920年調:166名[1] |
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兵装 |
40口径安式12cm速射砲 2門[9] 40口径一号式12ポンド速射砲 4門[10] 18 in (45.7 cm)保式水上ヒ形発射管 2門[11] 探照灯 2基 |
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搭載艇 |
1920年:6隻[1] |
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その他 |
船材:鋼[3] |
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出典の無い数値は製造「要領書」による[12] |
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淀(よど)は、日本海軍の通報艦[3]。淀型通報艦(英語版)の1番艦である。艦名は川の名前で、大阪湾に注ぐ「淀川」にちなんで名づけられた[3]。同型艦は最上。
艦型
最上と異なり、クリッパー型艦首を採用した。
機関
機関は船体と同じく川崎造船所で製造された[8]。
ボイラーは宮原式缶で両面4基、蒸気圧力は計画で230 psi (16 kg/cm2)、実測値は210 psi (15 kg/cm2)だった[8]。
計画では石炭専焼だったが、建造中に重油混焼装置が追加された[13]。
主機は3段4筒レシプロで、筒の直径は高圧筒22 in (560 mm)、中圧筒34 in (860 mm)、低圧筒38.5 in (980 mm)を2筒、行程は94 in (2,400 mm)[8]。
推進は2軸[1]、外回り[8]。
出力は機関計画で6,500 hp (4,800 kW)、実際は7,030 hp (5,240 kW)を発揮した[8]。
兵装
竣工前後の兵装は40口径安式12cm速射砲 2門[9]、40口径一号式12ポンド速射砲 4門[10]、18 in (45.7 cm)[12]保式水上ヒ形発射管 2門(左舷1門、右舷1門)[11]、探照灯 2基[12]。
魚雷は1912年(明治45年)1月の演習時には三八式二号過熱装置付魚雷が使われている[11]。
1920年3月の時点での兵装は安式12cm砲2門、一号8cm砲4門、麻式6.5mm機砲1挺(警備任務時は2挺)、水上発射管2門、探照灯2基[1]。
艦歴
計画
計画時の仮称艦名は「第一号通報艦」[12]。
当初の予算は明治38年度から明治40年度まで(1905年4月1日から1908年3月31日まで)の3年間で961,200円(兵装費を除く)だった[14]。
1905年(明治38年)4月15日に川崎造船所から製造の見積書が出され、その内容は請負金額905,000円(兵装・備品を除く)、期日は24カ月以内であった[15]。
4月23日に「第一号通報艦」は川崎造船所での製造することが決裁され[16]、
4月29日に製造契約の認許[17]、
5月1日に川崎造船所と製造契約を締結した[6]。
建造
1906年(明治39年)10月2日起工[3]。
1907年(明治40年)3月30日、ボイラーに重油混焼装置を装備する追加契約が結ばれ、請負金額は20,000円増額、引渡期日は同年10月31日に延長された[13]。
11月19日「第一号通報艦」は「淀」と命名され[2]、
午後4時に進水した[7][18]。
1908年(明治41年)4月11日、「淀」は通報艦に類別[4]。
7月10日に受領(竣工[3])、同日第一予備艦となった[19]。
兵器の装備は呉海軍工廠で行われた[20]。
バンコク派遣
1911年(明治44年)11月から翌月にかけて、シャム国王戴冠式に参列する伏見宮博恭王の供奉艦[21]としてバンコクを訪れた。
呉鎮守府警備艦[22]の「淀」と第一艦隊所属の「伊吹」の2隻がシャムへ派遣されることが1911年9月25日に内定し[23]、
10月5日に派遣命令が出された[24]。
2隻は連合小演習終了後に呉で航海の準備を行った[21]。
「淀」は11月9日に佐世保軍港を出港[25]、
11月19日に香港で御召艦「伊吹」と合流した[26]。
21日2隻は香港を出港[27]、
27日「淀」は「伊吹」から一時はなれてシーチャン島泊地で電報を打ち、同日シャム湾の停泊地に到着して「伊吹」と合流した[28]。
28日朝に博恭王が乗艦(「淀」は御召艦となる)、川を遡上し午後にバンコクへ到着、博恭王は退艦した[29]。
12月1日から4日までの間、昼間は満艦飾を夜間は電灯艦飾を施し、2日午前10時46分に皇礼砲101発を発射した[30]。
12月9日午前博恭王が乗艦しバンコクを出港、午後パクナム泊地に到着し博恭王は「伊吹」へ移乗した[31]。
2隻は10日朝に外泊地へ移動、「伊吹」は正午に同地を出港、帰国の途についた[31]。
「淀」には11日にシャム国海軍将校と兵学校生徒計39名が見学のために来艦、彼らは夕方退艦し、「淀」は即時に同地を出港し帰国の途についた[32]。
荒天のために15日から18日まで安南東岸のホンコーヘ(ホンカウ?)湾で避泊[33]、
21日朝香港に到着し、同地で「伊吹」と合流した[34]。
同日午後に「伊吹」は横須賀軍港へ向け出港、「淀」は翌22日に石炭と清水を搭載して24日午前に香港を出港し呉軍港に向かった[35]。
北東風が強かったために台湾海峡は大陸沿岸を通過したが、25日に風が更に強くなり、避難のために26日午前に三都墺に入港した[36]。
28日に同地を出港したがまだ波浪が高く、午後に南関港に入港した[37]。
31日に同地を出港、翌1912年(明治45年)1月1日からまた暴風になり艦の傾斜が50度を超える場合もあった[37]。
3日午前になって暴風も収まり、午後10時から安下庄で仮泊、翌4日午前に呉軍港に帰国した[38]。
1912年
1912年(大正元年)8月28日に通報艦の類別が廃止され、「淀」は一等砲艦に類別を変更した。
第一次世界大戦
第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加、さらに南シナ海方面の警備等に従事した。
1915年(大正4年)3月、大修理(大改造)を施行した[1]。
測量任務
1927年9月から翌年にかけて、呉海軍工廠で測量任務に必要な改造が行われた。
1931年6月1日に類別の変更により砲艦の等級が廃止され、「淀」は砲艦に類別された。
満州事変では、中国北部沿岸警備、測量に従事、日中戦争時の1937年には、中部から北部中国沿岸の警備とともに測量作業に従事した。
除籍
1940年4月1日、除籍となり廃艦第13号と仮称。戦時中は岩国に所在し、終戦後に光に曳航され、その後解体された。
固有符号
信号符字
旗旒信号などで使用される符号。
略符号
無線電信などで使用される艦の固有符号、いわゆるコールサイン。
公試成績
実施日 |
種類 |
排水量 |
回転数 |
出力 |
速力 |
場所 |
備考 |
出典
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1908年5月25日 |
予行10ノット |
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503馬力 |
9.6ノット |
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平均吃水 10 ft 8+15⁄16 in (3.275 m) |
[41]
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同上 |
予行全力2/10 |
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1,293馬力 |
11.8ノット |
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[41]
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同上 |
予行全力3/10 |
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1,901馬力 |
14.5ノット |
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[41]
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同上 |
予行全力4/10 |
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2,636馬力 |
16.1ノット |
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[41]
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同上 |
予行全力6/10 |
|
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4,698馬力 |
18.8ノット |
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[41]
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艦長
※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 森義臣 中佐:1908年4月11日 - 1908年9月25日
- 水町元 中佐:1908年9月25日 - 1908年12月10日
- 磯部謙 中佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
- 奥田貞吉 中佐:1909年12月1日 - 1911年4月1日
- (兼)奥田貞吉 中佐:1911年4月1日 - 1911年5月9日 (本職:明石艦長)
- (兼)吉島重太郎 大佐:1911年5月9日 - 1911年5月22日 (本職:生駒艦長)
- (兼)大島正毅 大佐:1911年5月22日 - 1911年7月15日 (本職:明石艦長)
- 山口鋭 中佐:1911年7月15日 - 12月27日
- 菅野勇七 中佐:1911年12月27日 - 1912年12月1日
- 田代愛次郎 中佐:1912年12月1日 - 1913年2月8日
- 保坂彦太郎 中佐:1913年2月8日 - 1913年9月20日
- (兼)奥田貞吉 大佐:1913年9月20日 - 1913年12月1日 (本職:春日艦長)
- 川上親幸 中佐:1913年12月1日 -
- 土師勘四郎 中佐:1914年8月23日 - 11月16日
- 田尻唯二 中佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 鈴木豊吉 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日[42]
- 黒瀬清一 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 武富咸一 中佐:1917年12月1日 - 1918年6月19日
- 森初次 中佐:1918年6月19日 - 1918年12月1日
- 森脇栄枝 中佐:1918年12月1日[43] - 1919年12月1日[44]
- 副島慶一 中佐:1919年12月1日[44] - 1920年11月15日[45]
- 中山友次郎 中佐:1920年11月15日[45] - 1921年3月5日[46]
- 常盤盛衛 中佐:1921年3月5日 - 1921年11月1日
- 岩崎猛 中佐:1921年11月1日[47] - 1922年11月20日[48]
- 松尾勘九郎 中佐:1922年11月20日[48] - 1923年11月10日[49]
- 柴山司馬 中佐:1923年11月10日 - 1924年11月10日
- 北川清 中佐:1924年11月10日 - 1925年4月15日
- 野原伸治 中佐:1927年12月1日[50] - 1928年12月4日[51]
- 大宅由耿 中佐:1928年12月4日[51] - 1929年7月1日[52]
- 湯野川忠一 大佐:1929年7月1日[52] - 1929年11月30日[53]
- 石原戒造 中佐:1929年11月30日[53] - 1930年1月6日[54]
- 沢野源四郎 中佐:1930年1月6日[54] - 1930年12月1日[55]
- 栗林今朝吉 中佐:1930年12月1日[55] - 1931年12月1日[56]
- 茂泉慎一 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
- 小熊文雄 中佐:1932年12月1日[57] - 1933年11月15日[58]
- 後藤権造 大佐:1933年11月15日[58] - 1934年11月1日[59]
- 松原寛三 中佐:1934年11月1日[59] - 1936年12月1日[60]
- 近藤為次郎 中佐:1936年12月1日[60] - 1938年2月10日[61]
- (兼)村山清六 中佐:1938年2月10日[61] - 1938年2月20日[62] (本職:第十四駆逐隊司令)、以後艦長の発令は無い。
脚注
出典
参考資料
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a:通報艦として計画、b:通報艦に類別 |
類別等級制定前 | | |
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水雷砲艦 | |
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新造艦 | |
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鹵獲艦 | |
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